松山ケンイチ(ヘアメーク:勇見勝彦(THYMON Inc.)/スタイリング:五十嵐堂寿)

 『かもめ食堂』(06)『彼らが本気で編むときは、』(17)の荻上直子監督による新作『川っぺりムコリッタ』が、9月16日(金)から全国公開される。主演は松山ケンイチ。誰とも関わらずにひっそりと暮らすため、北陸にやって来た孤独な主人公を、自然なたたずまいで演じている。初体験となった荻上ワールドは、どうだったのだろうか?

-どこに興味を持って、出演を決めたのですか。

 『聖の青春』(16)で、イタリアのウディネ・ファーイースト映画祭に参加したときに、荻上監督の前作『彼らが本気で編むときは、』を見て、めちゃくちゃ感動して。日本から参加されている監督や俳優の皆さんとご飯を食べる機会があり、それで初めてお会いしたんだと思います。みんな初対面で、合コンみたいでした(笑)。どうしても緊張するんですよね。誰か知っている人がいれば、そこからつながって話も膨らむのでしょうけど。今回演じた山田みたいでした。だから、荻上監督とご一緒させていただけることは光栄だと思ったのと、ああいう価値観や認識が自分の中にはなくて、初めて知った衝撃が感動につながったというか。今回も自分の認識できる世界の外にある人たちの話。こうやってその日暮らしをしている人は、NHKの番組やネットニュースで見掛けるし、自分でも読んでいましたけど、それだけでは向き合ったことにはならなくて。実際演じることになって初めて、自分と共通する部分や周囲を見回したりしますから。そういう作業の中で、認識は広がっていくと思うんです。

-荻上監督は、コミュニティーにこだわっている監督です。その在り方が古い価値観を揺さぶりますが、でも深刻にせずにファンタジーの世界観に落とし込みます。

 山田は、何も知らずにあのコミュニティーの中に入っていって、みんなが突っ込んできてかき乱される。そうやって化学反応が起きることで、コミュニティーも揺れて違ったものになっていく。山田は生きる意味を持っていないし、生きていてもしょうがないと思いながら、でも飯はうまい。だから生きる喜びも実感しながら、その幸せを幸せとして認識していない。いろんな要素で幸せは認識できると思うけど、それを持たないでこのコミュニティーに来て、周囲が関わってくることで、目の前の幸せに気付いていく、実感していくキャラだったので、僕は特に何もしていないんです。何もしないようにしていたし、田舎に住んでいるただの僕が、ぽっと入ってきたみたいになりたかったんですよ。あのヤギみたいになりたかった。周囲は、台本に書かれている段階から癖が強い人ばかりでしたし、みんな信頼できる俳優さんだったので、何かが起きるだろうと思っていました。

-ムロツヨシさん演じる島田が、どんどん山田の生活に入り込んでくる過程が面白いです。現場では、どんなやりとりを?

 台本を読む限りではコメディーっぽく感じる。しかもムロさんがやるんだから、絶対に面白いだろうと想像できる。でも荻上さんは、そういう予想の範囲内にはしたくなかったんだと思いました。「淡々と」という言葉もあった気がするし、テンポを気にしなくていいというんですよ。多分、セオリー通りの見え方ではなくて、そこでちゃんと生活している人たちのリズムを大事にしていたんだと思うんです。山田のリズム感と島田のリズム感は絶対に違うから、きれいにポンポンポンとなるわけがないんです。ポンポンポンとなったら面白い、笑えると思うんですけど、そうはしたくなかったのではないかな。

-その延長線上にすき焼きのシーンが!

 あれなんかは、完全に島田を受け入れた瞬間であった気もするし、自分から飛び込んでみようと変わった瞬間でもあると思います。ご飯って偉大ですよね。肉って偉大だなと。それだけ人を変えちゃうんだと。だから、あのシーンは食卓を囲んでみんなとご飯を食べる幸せを共有している感じ、生きる喜びを共有している大事さがすごく出ていると思うんです。家族みたいだけど家族ではない。そういうコミュニティーだって成立するわけですよね。それは本当にこの作品の素晴らしいところだし、好きなところですね。

-山田は言葉数が少ない代わりに、よく食べている。食べるシーンの演技でこだわったことは?

 ムロさんと長回しで撮っているじゃないですか。だから基本的には、ここにご飯があれば食卓だって分かるから、無理に食べなくても成立する。だけど今回の作品だと、そういうのが通用しない。食べながらせりふを言わないといけない。どこかでせりふを言う出番がくるわけだから、どのタイミングで口に入れるのかをテストで全部計算しておかないといけないんです。ここまで入れちゃうとしゃべれなくなるなとか、ここで飲みこんでおかないとまずいとか。あの長回しにはそれが絶対に必要で、食べ終わっているでしょ、最後に。緊張感がありました。でもあのときは、味はしなかったな(笑)。

-山田を演じながら、自分と重なった部分は?

 台本を初めて読んだときは、僕はまだ東京に住んでいたんですけど、東京で生きていたんでは絶対に理解できない部分、目の前に畑があって、作物を栽培して、それを誰かと共有するとか、隣近所の人と一緒にご飯を食べるとかは、東京では無理だなと思ったんですよ。それを習得するためには、自分から行かないといけないと。そうすることで、一番楽にこの作品に入れると思ったから。もちろん他にもいろいろな理由があるんですけど、この作品も田舎で生活するようになった一因です。東京では発見できなかったことをたくさん発見しました。どれだけコミュニケーションが大事なのかということもそうだし、お金のやりとりではなくて労働力のやりとりだったりするんですよ。それって人間の営みの原点。東京だと菓子折りだとか、結局お金の交換なんですよね。そこの違いははっきりと感じました。この映画では労働で補完し合っているから、健康的だなと思います。田舎に移り住んだことが、この映画に生きている気がします。

-東京での暮らしは、コミュニケーションが希薄だったと。

 僕はこういう近所付き合いはできなかったし、それぞれが理想とする生活を追い求めている感じがした。その情熱とか強さみたいなものは東京にいるときは周囲には感じていた。意見もちゃんと持っているし、頭もいいし、強い感じ。だけど、自分にできない部分、弱い部分を強さでカバーしているような気もしていた。それができなかったらお金で解決するという。だけど田舎では、自分の理想を追うというよりは、みんなで助け合って生きていく。みんなで田植えをしながら歌いながら生活している。「疲れたなぁ」と言いながら一日が終わって、ぐっすり寝て、また次の日が朝早くから始まる。今は機械とか使っちゃっているからあれなんですけど、農家同士のコミュニケーションとか、異業種間の関わり方も同じ地平にあるというか、上とか下がない。その中でコミュニティーが出来上がっていて、そこで不義理をしたら仲間外れにされますけど、東京だとそんなことはない。個で生きている感じがするから。

-風呂上がりの牛乳や白飯の匂いなど、ささやかな幸せがキーワードになっています。松山さんが日常で感じるささやかな幸せは?

 朝起きてみんなで朝ご飯を食べているときとか、子どもの起きたての顔を見るのとか。逆に、帰宅して夕飯を食べて、みんなが寝静まったときの子どもの寝顔だとか、子どもがエネルギー源ですね。あとは、自分が収穫した食べ物を家族においしいって言われることもそうで、いっぱいありますよ。それがずっと続いている状態。すごく幸せで、感謝しています。

(取材・文・写真/外山真也)