2023.2.20/神奈川県川崎市のアトリエにて

【川崎発】奥田雄太さんは、私の放つ質問にとても丁寧に答えてくれる。そして、饒舌ながら、ときおり思考をめぐらしつつ、慎重に適切な言葉を選び、それを口にする。小さな頃からの口癖が「でも」なのだそうだ。「でも」というのは、何か言い訳をするときなどに口にする逆接の接続詞だが、雄太さんの場合は、仮説と検証のプロセスにおける「でも」なのだという。おそらく、これからも成長を続けていくため、既存の概念に安直に寄りかからないための「でも」なのだろう。

(創刊編集長・奥田喜久男)

世界で闘うためには

多作・大作であることが必要だ

(以下、喜久男) アーティストでありながらマネタイズの方法を考えられたのは、お父さまの影響もあるとのことですが、幼少期、雄太さんはどんな環境で育ったのですか。

(以下、雄太) 私は愛知県の犬山市で生まれ育ったのですが、父は代々商売人の家系で、母は養蚕や植林・造園などを営む家の出身です。母の実家もすぐそばにあり、自分の家が二つあるような子ども時代でしたが、その家庭環境はまったく違いましたね。

商人の家と農業・林業を営む家系では、だいぶ違うでしょうね。

正月に1年ぶりに帰省しても、父方の親戚は「新年おめでとう」でも「久しぶりだな」でもなく、開口一番「どうだ、儲かっているか!」。それに対して母方の親戚は「あなたは感謝の気持ちを作品に表現しているのだから、嘘がないように生きなさい」といった具合です。

そのご両家のコントラストが、目に浮かぶようです。

それで、私は4人きょうだいの長男なのですが、父も4人きょうだいの長男で、つまり私は近隣地域に集まる一族全体の長男になるのです。それだけに、いまだったらいろいろと問題にされるほど、父からはわりと厳しく育てられました。だから、いまだに怖いですし、話すときはとても気をつかいます。

一族のお手本にならなければいけないという、なかなかつらい立場だったのですね(笑)。

そうですね。そのせいか、自分には父方の商売人的な思考が身についたように思います。子どもの頃、父と食事に出かけたとき、料理が出てくるのを待つ間、メニューを見て、客単価や回転数を試算して、遊びでそのお店の売り上げを想像していたんですよ。

お父さまは厳しいだけでなく、そうした日常の中で商売の本質を教えようとされていたのでしょうね。ところで、現在はアシスタントの方がたくさんおられるようですが、どんな体制で活動されているのですか。

3年前に法人化し、現在、アシスタントはインターンを合わせると21人います。

アーティストとしてはずいぶん大きな組織に思えますが、そうした理由は?

2022年は、年間に500枚描いて50展示しているのですが、海外の有名なアートフェアに出かけてみると、すべての作品が大きいのです。つまり、世界で闘うには多作・大作にする必要があります。つまり、そうすることで露出の機会を増やすわけです。

年間500枚というと、毎日1枚描いても追いつかないペースです。ということは、アシスタントが描く絵もあるということですか。

いいえ、アシスタントには私が描いたものの上に、線を描いてもらっています。もともと私は線を描くような細かな作業が得意ですが、作業であるのなら自分がやる必要はないと考えました。

もっとクリエイティブなことに、自分は時間を使うべきだと。

そうですね。そこで私は感覚的に描いていた線を自分以外の人が描けるようになるためのマニュアルをつくりました。美大出身者など技術を持っている人であっても、各人の感覚でやっていては出来栄えに差がついてしまいます。そこで、マニュアルをつくるにあたっては、ライターに依頼して私が線を描くときにいろいろな質問をしてもらい、誰もが同じように理解できる内容になるまで突き詰めました。

そこまで徹底した上で、ようやく人に任せることができるというわけですね。それにしても、そのマネジメント能力と実行力は傑出していると思いますが、ご自身ではどう思われますか。

自分の特異性ということでは、「自己分離」と「自己俯瞰」ができることが挙げられると思います。

自己分離と自己俯瞰、ですか。

自己分離というのは、アーティストである自分と商売人である自分の立場を分けて考えることができること。自己俯瞰は、文字通りその状況を冷静に俯瞰し、判断できるという意味ですね。

状況に応じて、使い分けができると。

でも、優先順位は決まっています。上位概念としてアーティストの自分があり、ビジネスマンとしての自分はそれに従うということですね。ですから、いくらビジネス的に有利なことであっても、アーティストとしてやりたいことでなければやりません。そこはブレていないですね。

何百枚も絵を描き続け

なぜ描くのか自問する

アーティストとビジネスマンの優先順位は揺るがないにしても、雄太さんの場合、今後、ビジネスの比重が高まって、ご自身のブランドを確立する方向に向かうイメージを抱きます。

おっしゃっていることは、おそらく間違っていないと思います。私はデザイナー経由でアーティストになったわけですが、デザイナーは組織づくりやお金を稼ぐことについてのプロ、つまりビジネスマンでなければなりません。

私は、アート制作とアート活動を別のものとして考えます。アート制作はアーティストとして好きなことを表現することであり、アート活動はそれをどう伝え、いかにその価値をお金に換えて食べていくかという営みです。

その両方がないと、アート業界として成り立たないということですね。

アート活動では、マーケットにアクセスしてオークションによる評価を得たり、アカデミックな世界で評価され美術館に収蔵されたりすることなどを目指しますが、作品にそうした資産性や価値を付与することが、後世にその作品を残すために必要なのです。

目の前の収益だけにとどまらず、その先のことも考える、と。ところで、今年出された画集を拝見すると、初めのほうはモノクロの線画で、後半はカラフルな絵に変化してきていますね。

この画集は2011年頃の作品から時系列にまとめたもので、最初のほうは、テーマを設定しているものの自分が描きたいものをそのまま描いています。

その後、何百枚も描き続けている中で、自分はなぜ描くのかと自問し、それを言語化しフィロソフィーとなったのが、サーキュレーション(循環)であり、具体的には食物連鎖だったり十二支だったりするのですが、それがいま、自分の大切にしていることといえます。

初期の頃は、まだ哲学がなかったということですか。

そうですね。あったとは思いますが自覚はできていなかったです。3年前、コロナ禍が始まったときにカラーで大きなブーケの絵を描いたのですが、ここには当たり前のことに感謝する気持ちを込めました。カラフルな絵で、みんなを元気にし、自分も元気になりたいと思ったのです。そんな気持ちを次代に伝えることも、サーキュレーションであ

ると考えています。

これからも、ますますのご活躍を期待しています。ただ、だいぶ多忙のご様子、健康にはくれぐれも留意してくださいね。

こぼれ話

年貢の納め時が近くなってきた。今日あすの他界ではないが、何となくそんな気分になっている。間質性肺炎の難病指定を2年前に受けてから、ますますその気になっている。創業してからの40年間、経営者の立場にあったから事業計画を立てるのが習慣になっている。ゴールを決めてから逆に線引きして単年度、あるいは3年計画をつくる。その過程はとてもワクワクする。3年間の妄想を描きながら計画立案をするからだ。未来など誰にもわからない。だから自由に膨れ上がる計画が楽しい。絵画、陶器、彫刻も、その創作過程は同じだろう。奥田雄太さんと話をしながら、幼少期にとても親しかった友だちとの再会シーンを思い出した。

友人は墓石屋の3代目だ。一昨年、墓石の建て替えを思い立ち、数十年ぶりに電話をした。墓地の大きさは決まっているから「ここに100年もつ、掃除をしなくても良い墓石を」とお願いした。あなたにすべてを任す、とのひと言で完成した現物を見て、一瞬引いた。「おおっ!」という感じだ。岐阜市内の由緒ある崇福寺の墓地にあって、それが“浮いて”いるのだ。いまさらながら返品というわけにもいかない。家族の手前、「立派だよね」とは言ったものの、心の中は冷や汗をかいていた。要するに立派過ぎるのだ。

その墓石屋の友人Y君は名古屋大学法学部の卒業間際に父親を亡くし、苦渋の選択をして家業を継いだ。学生の頃はジャズピアノをプロとして弾きながら、その道に進むことを決めていた。が、長男ということもあって家業を継ぎながら家族のために働いた。そういえば、幼稚園児の頃は彼がオルガンを弾き、私が大きな声を出して歌っていた。この時間が楽しくてしかたがなかった。ある時、岐阜放送の「のど自慢大会」に出よう、と二人で出かけたことがあった。時は流れ70代にして再会、今も当時と同じ彼が存在していることが嬉しかった。彼は石の橋を作ったり、岐阜駅前に広がる石材建築を手掛けたり、全国あちこちの寺院に創作品を残している。わが家の墓石もY君の“創作”品だと思えば、何となく心が落ち着くではないか…。

雄太さんも“跡取り”として育てられた。あと1年だけ待ってあげよう。それで芽が出ないならば、画家の道は諦めること。父親との約束ごとを見事に果たして、現在がある。もし、その1年で断念していれば、今の雄太さんはいない。歴史に“もしも”はない。しかし、もしも、という道を考えてみるとしたら、今の雄太さんは何をしているのだろうか。いや待てよ。雄太さんは作品づくりを有田焼と同じ分業制を取り入れている。骨格は雄太さん担当。基本ができたら分業で作り込んでいく。売り上げを増やすにはどうするのか。どんな仕組みにしたらいいのか。これって、父親の家業を継いだ時も、きっと同じことを考えているのではないか。そんな気がしてならない。生きる道は一つしかない。とはいうものの、思いの深いことは生業を超えてやり続ける自分がいるようだ。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。