2023.9.21/尾鷲小学校にて

【三重県・尾鷲市発】私自身、企業の経営者としてだけでなく、次代のIT人材育成を支援する組織を運営していることもあり、人材の教育に大きな関心をもっている。世古博久さんは、尾鷲を中心に38年間、教師として管理職として教育に携わってこられた方だ。初任の地で災害により教え子を亡くす、という悲惨な経験をした後も子どもたちとともに歩んでこられた。「人を教え、育てる」とはどういうことか。必要なことは何か。退職してなお、教え子だけでなく多くの保護者や地域の人たちに慕われている世古先生に、話をうかがった。

(創刊編集長・奥田喜久男)

保護者や地域を巻き込んで

地域全体で子どもを育てる

――尾鷲小学校(以下、尾鷲小)の教頭・渡邉史次先生に校内を案内していただきながら――

木の香りが気持ちいいですね。

校舎の内外に尾鷲特産のひのきを使っています。尾鷲小は1877年創立で、東紀州で最も古い歴史があります。1954年に竣工された木造校舎も実に趣きがあったのですが、老朽化や耐震性の問題から、2012年に今の校舎に建て替えられました。

世古先生が尾鷲小にいらしたのはいつですか。

一般の教諭として着任した26歳から、11年間教鞭を取りました。その後教頭として2年、校長として2年勤務した後、定年退職しました。渡邉教頭は僕が校長の時に、教師として一緒に頑張ってくれていた一人です。

渡邉先生、世古校長はどんな方でしたか。

いやもう本当にエネルギッシュでした。最後の責任は自分が取るから、思うようにやってみろと…。若い教師の在り方を変えてもらったと思います。

印象に残るできごとを聞かせてください。

たくさんありますが、一つは朝礼での全校児童唱和でしょうか。朝礼の際、世古校長が掲げた四つのテーマを書いた巻物を4人の教師が持って“台”に乗り、全校生徒の前でバーっと広げるんです。それを全員で唱和して…。

おお。朝から気合いが入りますね。どんなテーマだったんでしょう。

「元気に挨拶」「しっかり考え」「きびきび行動」「全力でがんばる」だったかな。

いいですねえ。簡潔でわかりやすい。ほかに校長として心がけられたことはなんでしょう。

就任してすぐに、教師だけでなく、用務員さんや給食職員さんを含む全職員を集めて、「こんな学校をつくる」という方針をA4一枚にまとめて配りました。

いわゆるビジョンですね。それを用務員や給食職員の方にまで。

はい。「尾鷲小は校長や教師だけではなく、今ここにいる全職員から成り立っている。だから一人一人が、尾鷲小を背負って立つプライドと責任を持ってください」とお願いしました。

それは尾鷲小から始められたことですか。

いや、僕は尾鷲小のほかに四つの小学校の校長を務めましたが、どこの学校でもそうしていました。職員だけでなく、保護者や地域の方々にも言ってましたね。

その理由は?

僕、教え子だけではなくて、教え子の兄弟姉妹や家族とか全部を含めて、僕のクラスだと考えてきたんです。そこに地域の人たちも巻き込んで、みんなで一緒になって子どもたちを育ててもらおうと。保護者や地域、全体が関わらないと、その地域の子どもたちは育ちません。

ずいぶんエネルギーが必要になりますね。

確かに。でもそれが教師の仕事だと思っていました。上から言われてやるのではなく、自分で考えて突き進んできたことですから楽しかったですよ。

亡くなって半世紀が経っても

心に生き続ける教え子

世古先生のそうした教師としての考え方は、どの時点で醸成されたんですかね。そもそも教師になろうと思われたきっかけは?

子ども好きだったこともありますが、小学校の時の先生の影響が大きいです。高島時雄先生とおっしゃって高学年の時の担任でした。

先生のフルネームがすぐに出るんですね。

ええ。非常に影響を受けましたから。新任でいらしたんですが、周りの先生がやらない独創的なやり方で指導してくださったんです。「今日は青空学級や!」とか言って屋外で授業をしたり、みんなでキャンプに行ったり…。そこが魅力的で、自分もあんなふうになりたいと思っていました。

目指したい教師像があったわけですね。

26歳で尾鷲小に赴任した時にも、3人の先生から影響を受けました。どの先生も40代くらいだったと思うんですが、子どもたちを本当に大切にされていて、一生懸命、それぞれ自分で考えて実践しておられました。

高島先生と同じ姿勢がみられた。

そうですね。上から言われたことにただ従うのではなく、反骨の精神があるというか。職員会議でも校長や教頭に対して、堂々と自らの意見を述べる姿に感動しました。

なるほど。そうした先達との出会いが大きかった。

もう一つ、僕の教師生活を決定づけたできごとがあります。大学を卒業して初めて赴任した学校で、教え子を亡くしているんです。「大川明彦」という子どもで当時4年生でした。土砂崩れによる土石流に巻き込まれて…。

いつの災害ですか。

1971年の9月に起きた「三重県南部集中豪雨」でした。尾鷲市の二つの地区で土砂崩れが発生して、26人もの方が亡くなる大きな災害でした。明彦のお母さんと妹さんも亡くなりました。

9月というと、先生が春に赴任されて半年未満…。

そうです。実は僕も山崩れから命からがら逃げて助かったんです。翌朝、人づてに様子を聞いて地元の診療所に行くと、明彦とお母さん、妹さんのご遺体が並んでいて…。

…………………………。

明彦の枕元に野球のグラブが置かれていたんです。彼は野球が苦手だったので、僕がノックして、それを捕球するという練習を毎日のようにやっていた時のグラブでした。それを見たら涙があふれて止まらなくて…。

凄絶な経験をされましたね。

命の尊さを心底思い知らされました。正直言うと、当時は生きている人間と相対する仕事がつらくて、転職を考えたこともありました。

でも思いとどまられた。

つらい気持ちと同時に湧き上がってきたのが、「教師として、何があっても絶対に子どもの命を守ってあげよう。守らないかん」という思いでした。

それで教師として生きていく道を選ばれた。教師の基盤になるできごとでしたね。

ものすごく大きなできごとでした。でも僕だけでなく、子どもたちにとっても同じでした。男子7人、女子13人の20人のクラスでもともと仲がよかったんですが、明彦のことがあってから、さらに結束が強くなりました。

明彦君がみんなを結びつけてくれた。

はい。彼のおかげです。災害から半世紀が経ちましたが、墓参りを欠かしたことはないです。大川明彦は今も僕の心の中で生きていますね。生きていれば還暦ですか…。

現在の先生を拝見していると、そのできごとを教師生活においてプラスにされたように見受けられます。どんなふうに転じられたのか、次回はそのあたりも含めておうかがいしたいと思います。

(つづく)

奥様と一緒に愛車で

出雲大社へツーリング

自転車は世古先生の数ある趣味の一つで、愛車「ピナレロ ガリレオ」はイタリアの名車。趣味はほかにもスキー、テニス、カヌー、写真と実に多彩で、奥様とともに楽しむものも多い。64歳から始められた写真は、中日新聞主催の写真展に連続6回入賞という実力。個人でも毎年のように写真展を開かれている。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。