2024.7.3/東京都渋谷区のエイアンドピープルにて

【恵比寿発】先輩経営者である浅井さんのお話を伺っていると、そのキャリアのそれぞれの段階で得た職業観、仕事に対する姿勢が浮かび上がってくる。詳細は本文に譲るが、その過程で大変な努力をされ、つらい思いをされたことも少なくはないと思う。でも、浅井さんからネガティブな言葉が発せられることはない。それは、幼少時にお父さまから植え付けられた自立心や正義感、そしてフラットな感覚がベースにあるからではないか。お気に入りのスヌーピーグッズを拝見しながら、そんなことを考えた。

(本紙主幹・奥田芳恵)

「男にすがるような生き方をするな」と父は言った

現在、翻訳会社の経営者としてご活躍の浅井さんですが、やはり子どもの頃から外国語に関係する仕事に関心を持っておられたのですか。

いいえ、翻訳会社を起業するまでにはいろいろな経緯があり、結果的にこの世界に行き着きました。ただ、女性であっても男性と同じように仕事を持って自立するということだけは、小さな頃から意識していましたね。

それはどなたかの影響ですか。

父の影響です。父は中学の教師をしていたのですが、「満知子らしく正義を貫き生きなさい」と教えられました。つまり「常に正しい道を自分で考え、責任を持って生きろ」ということです。小学校低学年の頃から、そう教えられてきたんです。

ずいぶん厳格なお父さまだったのですね。

いいえ、うるさいことを言われたことはないのですが、そういう姿勢ははっきりしていました。また「男にすがるような生き方をするな」とも言われ、強烈な言葉が幼い脳裏に焼き付きました。

え~、小学生時代の話ですよね。

そうです。父の姉は県内でも群を抜いて優秀で、東京の有名女子大に合格したのに、女性ゆえ大学に行かせてもらえず、父は男というだけで大学に進学させられたそうです。まだ男尊女卑の気風が残る中、理不尽なことも受け入れざるを得ない伯母のふびんな姿を見て、娘の私には自立した人生を歩んでほしいという思いがあったのでしょう。だから私は、社会に役立つ大人にならなければという思いをずっと抱いていました。

まさにお父さまは、浅井さんの人生に大きな指針を示したのですね。ちなみにお母さまは、どんな方だったのですか。

それが父とは対照的で「女の幸せは男で決まるから、早くお金持ちとお見合いで結婚しなさい」と言っていました。子どもながらに、価値観の違う二人がよく結婚したなと思っていました(笑)。母は専業主婦でしたが、PTAをはじめ、地域のいろいろな活動に熱心であまり家にいなかったんですよ。そういう活発な気質も、私に受け継がれたのかもしれませんね。そういう意味ではユニークな家庭に育ちましたが、両親とも愛情深いことには変わりありませんでした。

学校では、どんなタイプだったのですか。

勉強で目立ったことはありませんでしたが、父の影響で正義感が強かったせいか、クラスのリーダー的な存在でした。小学校1年生のときからずっと学級委員でしたが、当時は男子が委員長という決まりがあって、私はいつも副委員長だったのです。

小学校にも、まだ男尊女卑的な決まりが残っていたのですね。

でも、実際にクラスを仕切っていたのは私でした(笑)。いじめっ子の男の子に馬乗りになってやっつけたりして、「満知ちゃんに言えば“せいばい”してくれる」なんて言われ、けっこう頼りにされていましたね。

生まれ育ったのは、群馬県の長野原町という自然豊かな田舎です。探検が好きな子どもで、木登りなどもよくしました。そういう環境でのびのびと過ごせたことは、とてもよかったと思いますね。

職人的な厳しさを身につけた歯科技工士時代

浅井さんは高校卒業後、そんな豊かな少女時代を過ごした群馬から上京されたわけですが、その理由はどんなところにあったのですか。

当時、田舎では女性が男性のように定年まで働ける仕事が限られていました。姉たちも結婚すると退職して専業主婦になるのが風習でした。結婚して子ども産んでも男性と同じように仕事をするためには、上京するしかないと子どもの頃から思っていました。私は手先が器用だったため、一生仕事を続けられる技能を持つことを自分の強みにしようと考え、歯科医師をしている親戚の勧めもあり歯科技工士を目指し、国家資格を取得しました。

まさに、手に職をつけるということを実現したのですね。その歯科技工士の仕事はいかがでしたか。

歯科医の先生がとった歯の詰めものやかぶせものなどの型に石膏を入れて、その石膏型に合わせた金属の詰め物をつくるという仕事です。少しでも噛み合わせが合わないとつくり直しになり、チタンや金など高価な金属を使うため、コスト面でも無駄を排除するために神経を使いました。また、納期は絶対で、そのための残業や早朝出勤は当たり前でしたので、仕事の厳しさを習得できました。それはいまの仕事にも生かされています。

仕事に対する考え方のベースができたわけですね。それで、このお仕事はどのくらい続けられたのですか。

5年強です。当時は土曜日も仕事で、朝7時半から終電まで歯科医院のなかの技工室にこもってひたすら仕事をしていました。一人暮らしをしていたこともあり、一日を通して、挨拶以外の会話は一切ありません。

それは、精神的にもきついですね。

いまは歯科技工士の労働環境もよくなっているのでしょうが、当時、通勤時に新宿駅の雑踏をくぐり多くの人とすれ違うのに、誰とも言葉を交わさず、笑いもせず、黙々と与えられたケースをこなし、終電に飛び乗る日々。私に限らず、より複雑なケースを担当する上司を見て「この仕事をしていて幸福な家庭は築けるのか」と疑問を抱くようになりました。母や周囲の反対を押し切って選んだ仕事ゆえに「自分は人が好きなんだ。人と接する仕事がしたい」と心に忍ぶ思いを長らく押し殺していました。しかし、自分の人生だ。その心の声を素直に受け入れてもよいのではないか、悔いのない人生を送りたいと、もう一度だけ人生をリスタートしようと、転職活動に踏み切りました。

いくら社会に役立つ仕事であっても、そうした生活をずっと続けることは厳しいですね。

ところが、求人広告を見ていろいろな会社に応募したのですが、どこも採用してくれません。面接のときに必ず聞かれる質問は「国家資格まで取って、実績も上げているのに、どうしてただのOLになりたいのか」というものでした。その質問に対して胸を張って明確に答えることができず、もごもごするだけでした。ことごとく不採用となり、この会社でダメだったらもう転職活動をやめよう、これで最後にしようと思ったとき、はっきりと自分の考えを伝えることができました。

それはどんな?

これまでいくつかの会社で面接を受け、必ず同じ質問をされました。私は社会の役に立つために歯科技工士という職を選び、多くの患者さんのケースを担当させていただき、休みも返上してまじめに仕事に取り組んできました。そこではプロとして、納期を厳守し、品質を維持し、無駄なコストを出さないというプロ意識を徹底して、植え付けてもらいました。この転職も生半可な気持ちで始めたことではなく、長いあいだ悩みながら、もう一度自分の人生にチャレンジしたいと思い勇気をもって応募した、と答えました。

きちんと、本音も含めてお話になったのですね。

その会社はIT企業で、求人広告の職種は総務でした。ですから「お茶出しでもコピー取りでも、相手の身になって、どうしたらおいしいお茶を出せるか、どうしたらより見やすいコピーをとれるか考えて仕事に臨みます。もし、私を採用してダメだと思ったら1カ月でクビにしてもらってけっこうです」とお話ししたんです。

すごい迫力ですね。

面白いやつが来たと思ったのでしょうね。コンピューターはおろか、当時のワープロも触ったことのない私に採用通知が来ました。でも、配属は総務ではなく営業だったのです。(つづく)

ご両親の写真と大切なスヌーピーグッズたち

浅井さんのお気に入りはスヌーピー。小学校2年生のとき、お土産にスヌーピーのハンカチをもらって以来、心の支えになっているとのこと。正義感が強く、フラットで誰にもこびない表情豊かなところが、お父さまの教えと重なるそうだ。ちなみに、ジャケットの襟にもスヌーピーのブローチが輝いている。

心にく人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。