律は〈リケジョ〉である。
〈リケジョ〉って何? 理系女子の略だ。ちょっと前に歴史好き女子を縮めて〈レキジョ〉を自称するタレントが出たけど、あんな感じですね。ただし〈リケジョ〉には悪意がこめられている。律は学習塾で講師のアルバイトをしているのだが、その教え子の中学生がつけたあだ名なのである。子供におもねらず、テレビも音楽もファッションの話も通じない律は別世界の住人も同然。〈オタク〉とほぼ同義の悪口が〈リケジョ〉なのだった。
『プチ・プロフェスール』(角川書店)は、『お台場アイランドベイビー』で第30回横溝正史ミステリ大賞を獲得してデビューした、伊与原新の受賞第1作である(ちなみに伊与原はもともと理系の研究者。〈リケダン〉の出身である)。
プチ・プロフェスール
伊与原 新
角川書店
1,470円
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5篇から成る連作小説である本書は、律がとあるアルバイトを引き受けることから始まる。
そのころ律は大金を必要としていた。コペンハーゲン大学のニールス・ボーア研究所に1年間留学する話が舞いこんできたのだ。奨学金つきの留学だが、寮費のうち100万円分だけは自分持ちなのだ。貧乏大学院生の律にそんな金はない。そこへきた話なのである。
馬渕理緒というお嬢様がいる。律に紹介されたのは、小学生の彼女の家庭教師兼ベビーシッターの役目だった。引き受ければ、めでたくボーア研究所行きの資金を稼ぐことができる。馬渕邸で理緒との面談に臨んだ律は、彼女の一言で自分が雇われた理由を知ることになる。
「律先生、リケジョでしょ? わたし、リケジョになりたいんです」
かくして理系研究者の鑑ともいえる律と、リケジョに憧れる理緒(好きなアイテムはハンダごて)とのコンビが誕生した。『プチ・プロスフェール』は2人が遭遇した不思議な現象の謎を解くミステリー仕立てのお話である。連作を通じて語られていることがもうひとつあり、「カガクとは何か?」というテーマがが理緒に対する律の教えという形で毎回示されている。科学のトピックが理緒にもわかるような(ということはその方面に明るくない筆者のような人間にもわかる程度の)難易度で語られるのだ。
たとえば「投げ出し墓のバンディット」では「実在」するということの科学的な解釈が、量子力学の有名なたとえ話を引用しながら語られる。「チェシャ猫マーダーケース」では非科学的な態度は何かという反面教師的な例が引かれるし、「恋するマクスウェル」では地球人が他の天体の生命体とコンタクトをとることは可能か、という夢のような話題が扱われている。理緒の純粋かつ熱心に科学を信奉する態度と、律の厳格な態度とがいいバランスをとっている。ふたりを合わせたものがカガクなのか、と読者は感じるだろう。ピッと背筋を伸ばされる。
「あんたらみたいなのをね、思考停止って言うのよ! なんにも確かめようとしないで、足がすくんでるだけのあんたたちに、理緒を悪く言う資格なんてない! 科学っていうのはね――」律は理緒をビッと指差した。「科学っていうのは、態度のことなんだよ!」
指さされた理緒が、顔を輝かせる。
「教授、それ、すっごくカガク的です!」その手には、いつものハンダごてが握られている。(「投げ出し墓のバンディット」)。
同時に、『プチ・プロフェスール』は非常にロマンティックな小説でもある。科学的で夢想的。このふたつがまったく矛盾するものではないということを、5つのエピソードによって作者は示そうとしている。
律の側から眺めたとき、世界は静的で、均衡のとれたものとなる。すべての異変は科学の論理にしたがって、落ち着くべきところに落ち着くことになるからだ。そこには不思議の入りこむ余地はない。だが逆転させて、理緒の視点から見たらどうなるだろう。
すべてが初めて知る出来事。律によって開かれる、まったく新しい世界。
彼女の側から見たとき、世界は驚きに満ちたものになるのだ。毎日が驚きの連続。そんなエヴリデイ・マジックの名作を、私は知っている。P・L・トラヴァースによる児童文学の傑作、〈メアリー・ポピンズ〉シリーズである。大学院という理緒にとっての「不思議の国」からやって来た律は、現代に呼び戻されたメアリー・ポピンズなのだ。
あの小説のメアリー・ポピンズは、ベビーシッターとして子供たちに慕われながらも、やがて風に乗ったり、扉の向こうに行ったりして姿を消してしまう。子供たちはいつか大人になって幼年期に別れを告げるものだということを、トラヴァースは書いていた。
『プチ・プロフェスール』にもそうした別れの話がある。最後の「四〇二号室のプロフェスール」だ。作者はこの話で、律自身の過去を書いた。トラヴァースの生んだメアリー・ポピンズは、陶器の人形のような風貌と描写されており、ツンと済ましていていつもは人に笑顔を見せない(特に世話をする子供たちには)。その彼女にも内面はあり、歴史はあったはずなのだ。「四〇二号室のプロスフェール」で作者は、魔法使いの内面を描き、魔法の一部を解いた。〈リケジョ〉という硬い響きの言葉にこめられた魔法も、ここで解かれて無くなってしまうのである。
あくまでも冷静に公平に、しかし熱情をもってカガクを語る小説だ。カガクを語ることがロマンを感じることにもつながっている。この小説を読み終えて、カガクと自分との距離がちょっとだけ縮まったような気がした。いや、自分から少し近づいたんだな、きっと。