対して、TVドラマは「日常」に向かう。
そこで描かれる「日常」を支えるのは「普通」のキャラクターたちである。前田敦子もドラマの場合は、「普通」の役にキャスティングされ、「日常」からはぐれない芝居を求められてきた。私見だが、それでは彼女の個性は活きない。
『マジすか学園』はAKBドラマであり、その中で「前田敦子」という役を演じることに意味があるメタフィクショナルな武闘ものだったから良かった。また『Q10』で演じたのはロボットだから良かったのだ。
典型的なヒロインを巧妙に「普通」に演じることができる女優なら他にいくらでもいる。前田にそれを要求しても意味はない。そう考えていたが、『毒島ゆり子のせきらら日記』を観て目から鱗が落ちた。こういうかたちであれば、彼女は「普通」が演じられるし、彼女の演技上の個性も活きる。前田敦子なりの「普通」が、この作品には出現している。
常時、二股。確かに「普通」の女性主人公ではない。
だが、奔放なわけでも淫乱なわけでもなく、毒島は己に課したルールの下にそうしている。このルールに、このキャラクターの「普通」があらわれている。交際開始するとき相手に、自分が二股していることを告げること。そして、不倫はしない。
このふたつが、毒島なりの恋愛ルールである。
不倫をしないのは、かつて父親の不倫によって、自分と母親が傷ついたからだが(その禁を犯して、新井浩文扮する意中の相手に深入りしていくことが今回の物語の肝になる)、こうしたある種の生真面目さが、二股を隠さないという通常では考えにくいルール(だが、これがあることによって、このドラマはファンタジーの様相も呈している)につながっていくキャラクターを、前田は「普通」に演じている。
周囲から見れば、それはないよ、と思われるようなことも、本人にとっては大真面目な掟。
けれど、考えてみれば、「わたしたち」もまた恋愛に限らず、そうした思い込みのルールを自分の人生に課しているのではないか。ルールという「縛り」によって、なんとかバランスをとっているのではないか。
回を重ねるごとに、最初は突飛に見えた主人公が、どんどん「普通」に思えてくる。
毒島は、行きつけの喫茶店でクロワッサンをどう食べるかで、相手の男性を「品定め」するが、同じように視聴者も毒島を「品定め」していく。
毒島のモノローグによって展開するだけに、その「覗き見」感覚はスリリングだ。これは30分という枠だからこそ可能になった「実験」であり、この「実験」によって、前田の新たな可能性「普通」も見えてきた。
ドラマと並行するかたちで、女優、前田敦子を「品定め」していきたい。