NHKで好評放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」。11月8日放送の第三十一回「逃げよ信長」は、織田信長(染谷将太)が、越前の朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)との戦に挑む金ヶ崎城の攻防を軸に展開。浅井長政(金井浩人)の裏切りで窮地に陥った信長を救うため、木下藤吉郎(佐々木蔵之介)と共に殿(しんがり)を務めた光秀(長谷川博己)は、無事に撤退を成功させる。役者陣の熱演も光る見応えある回だった。
だが、ここで少し視点を変えて駒(門脇麦)に注目してみたい。この回、駒の出番は将軍・足利義昭(滝藤賢一)と対面したワンシーンのみ。とはいえ、そこでは信長の敗戦を知った義昭が、信長から「将軍の許しを得ずとも、何事も信長の裁量一つであることを認めよ」と要求されたことを打ち明け、「御所の塀や屋根を修繕することも大事であろう。しかし、貧しき者、病の者たちを救うてやるのが先ではないのか」と帝を敬う信長への違和感を漏らす。今後の行方を左右しそうな場面だった。
第三十回「朝倉義景を討て」で、「そなたとこうして会うていると、一時、すがすがしゅうなるのが不思議じゃ」と語ったように、駒は義昭にとって本音を打ち明けられる数少ない相手だ。武家の棟梁でありながら、僧侶として育った義昭は戦を好まず、「貧しい者を救いたい」という思いから、駒と密かに救済施設の設置を進める。もし、駒と一緒の場面がなければ、信長や摂津晴門(片岡鶴太郎)ら、武将たちの前に鎮座するだけで、これほど魅力的な人物にはならなかったはずだ。
そして、もう一つ振り返っておきたいのが、光秀と駒との関係だ。駒と義昭が対面する場面の前、朝倉・浅井軍の追撃を阻止した光秀は、いとこの明智左馬助(間宮祥太朗)にこう語っていた。
「わしは今まで、なるべく戦をせぬ、無用な戦はさせぬ、そう思うてきた。しかし、こたびの戦ではっきりと分かった。そんな思いが通るほど、この世は甘くはない。高い志があったとしても、この現(うつつ)の世を動かす力が伴わねば、世は変えられぬ。戦のない世を作るために、今は戦をせねばならん時なのだと」
これを見て、第二十七回「宗久の約束」での光秀と駒とのやり取りを思い出した。久しぶりに再会した駒から、義昭の上洛に伴って「京で戦をなさるのですか」と問われた光秀は、「戦は避けたいが…。(中略)やむを得んのだ。この乱世を収めるには。戦のない世にするには、幕府を立て直さねばならぬ」と同じように答えながらも、迷いをにじませていた。そこで駒から「皆、そう申して戦をしてきたのです」と強い調子で返され、言葉を失った光秀は、武装せずに上洛するよう信長を説得する。
その光秀が、この回では「今は、戦を重ねるしかないのだ」と覚悟を決める。そこに駒がいないのは象徴的だ。まるで、駒のいる場所から遠く離れたことが、この覚悟につながったようにも見える。
戦をなりわいとする武士の光秀は、「平和な世を」と願いつつも、戦を避けて通ることができない。信長や松永久秀(吉田鋼太郎)らとの武士同士のやり取りも、「戦乱の世でどう立ち回るべきか」という話になりがちだ。
これに対して、平民で戦災孤児の駒には、「戦をする」という思想がない。それ故、駒と対面した光秀は「戦に対して、どう向き合うのか」という根本的な姿勢を問われることになる。
光秀にしろ、義昭にしろ、駒と向き合うことで、戦に対する姿勢が浮き彫りになり、より人物像に深みが増していく。例えるなら、駒は彼らの魅力を引き出す隠し味のような存在だと言えるのかもしれない。そして、もちろん、駒自身が手掛け、徐々に規模が拡大していく製薬業の行方も気になるところ。そんな駒に注目していくと、ドラマの新たな魅力が発見できるのではないだろうか。(井上健一)