2020.10.30/東京都千代田区のSAPエクスペリエンスセンターにて

【東京・大手町発】SAPといえば、ERPの巨人というイメージが強い。経営者も世界を股にかけるスーパービジネスマンで、一分の隙もないタイプだろうと思い込みがちだ。ところが、本紙10月12日号の「行きつけの店」でSAPジャパンの内田会長が六本木の蕎麦屋(というか飲み屋?)を紹介している。その小さなコラム記事から、一瞬、フレンドリーな感覚が立ちのぼった。内田さんがスーパービジネスマンであることは違いないが、「一度お会いしてじっくり話を聞きたい」という私の記者としての直感は、見事に当たったのだった。楽しかった。(本紙主幹・奥田喜久男)

「優」の数が少なかったことで

難関の公認会計士の道へ

内田さんのご経歴を拝見すると、外資系企業で活躍される日本人ビジネスマンの中でも、これ以上ないほど華やかですね。

いやいや。大学での成績が悪くて就職できないと思ったからこの道を選んだわけで、実はけっこう挫折しているんですよ。小学校や中学校の受験にも失敗していますし。

それは意外ですね。

高校は男子校の早稲田大学高等学院で、ストレートに早大に進学できることからあまり勉強せず、楽しい学生生活を送っていました。クラスでもリーダー的存在で、要領だけで生きてきた仕切り屋みたいなところがありました。高3の頃からは、友人たちと輸入古着や手作りアクセサリーを売る露天商のような商売を手がけてだいぶ稼いでいたんです。だから大学での「優」の数は少なく、大手企業への就職は厳しい状況にありました。

どちらかというと、少しやんちゃな“仕切り屋”タイプだったのですね。

ところが19歳のとき、私にとって大きな転機となる出来事が起きてしまいます。台風の通過直後、伊豆の下田にサーフィンに行き、そこで親友を大波にさらわれて失ったのです。

このとき「彼の分も生きなければならない」という想いが生まれました。もともと「世界を舞台に、ビジネスマンとして世の中の役に立ちたい」という志は持っていましたが、総合商社に入るには成績が足りない。それならば難関資格である司法試験か公認会計士試験に挑戦しようと考えました。司法試験の参考書を見ると縦書きの漢字ばかりで違和感がありましたが、公認会計士試験のそれは数字やグラフが多く、私の感覚にフィットしたんです。会計学の授業で聞いた「アメリカの会計士はビーン・カウンター(豆の数を数える人)ではなくビジネスアドバイザーだ」という話も、私の志向に合ったものでした。

それで会計士の道を歩まれたと……。

海で亡くした親友への想いも手伝ってか、すべてをかけて試験勉強に打ち込むことができました。このときが人生で一番勉強した時代ですね。その甲斐あって、卒業して2年目の秋、公認会計士の二次試験に合格できました。

サンノゼの日系現地法人で

企業経営の全体像をつかむ

最初から外資系の会計事務所に入られたのですね。

はい。やはり海外に行きたいという思いが強く、仕事がきついため嫌われがちな外資系の事務所を志望しました。合格発表の日に訪問したのが、プライスウォーターハウスクーパーズ(PwC)とピートマーウィックミッチェル(現KPMG)です。PwCでは当時のチェアマンの方とお話しした後、「明日、英語の試験があるので来てください」と担当者にいわれ、その後ピートマーウィックに向かいました。ピートマーウィックでは人事担当のパートナーの方に「5年経っても海外に行けないのなら辞めます」とか、入社する前から生意気な口をきいたのですが、「ちょっと待ってて」といわれて出てきたのは採用通知書だったのです。これにはさすがに驚いて、「英語の試験はないのですか」と尋ねると「会計士の試験の合格したくらいですから必要ありません」と。それでPwCには断りを入れ、ピートマーウィックに入社することになったのです。

いよいよビジネスの世界に足を踏み入れたわけですね。

ピートマーウィックでは、日本の大手企業の監査や金融機関のプロジェクトなどに参加していました。仕事ぶりが認められたのか、ロンドン勤務の話が舞い込みました。金融業界に強い同社でのロンドン勤務は、エリート候補生の証だったのです。ところが、当時プロジェクトを担当していたクライアントから途中で担当者を代えないでくれといわれてしまい、泣く泣くロンドン行きはあきらめることになります。

クライアントからも認められているわけですから、心中複雑ですね。

そうですね。でも、入社6年目の1986年にアメリカ西海岸のサンノゼオフィスへの赴任が決まります。今でこそ誰もが知るシリコンバレーの街ですが、当時はサンノゼがどこにあるのかすらわかっていなかった。

ここで経験したことは、とても役立ちました。日本では大企業や外資系企業の監査を担当していましたが、サンノゼに設立される日系現地法人は、東芝もNECも富士通もみんな中小企業規模でした。だから、企業の全体像を鳥瞰図のように見ることができる。日本の大企業では象の足を触っているような感覚だったのに、サンノゼでは企業全体が見えてくるわけです。

会計だけでなく、経営全体をとらえられるということですね。

たとえば、M&Aを実行する際に工場の立ち上げにあたって工場長を探してくるとか、新たなシステムを構築するとか、人材確保のためのインセンティブの仕組みをつくるといった社長のお手伝いをしましたが、これらのことは自分一人でできるわけではないので、問題解決のためにいろいろな分野の人を集めておつき合いすることになります。

まさに仕切り屋ですね。

顧客の困りごとに対応しているうちに、会計士からビジネスアドバイザー的な存在になっていったんです。「このお客様を輝かせるためにはどうしたらいいのだろう」と考え、そのための大道具、小道具、照明、舞台回し、衣装を揃える。いわばプロデューサーの仕事ですね。そして、その人が最後に大見得を切り、拍手喝采を浴びる姿を舞台の袖で見て「やった!」と思う。それが喜びだったんです。

そうした顧客の要望に応えようとするとき、青写真のようなものが自然に浮かぶのですか。

浮かぶというよりは、自分がやりたいことを実現するために、鳥の眼と虫の眼を持って考えたということですね。その重要性については、部下たちにも言い続けてきました。

マクロの視点とミクロの視点を併せ持つことが大切というわけですね。

お客様と一緒になってやってきたから、ここまでできたと思いますし、最初に赴任した海外拠点がシリコンバレーだったこともプラスに働いたのだと思いますね。(つづく)

Inspired.Lab

2019年2月、大手町ビルにSAPジャパンと三菱地所が共同でオープンさせたイノベーションのためのコラボスペース。その開設に尽力した内田さんみずから、思い入れのある場所として案内してくれた。トヨタ、リコー、旭化成など大企業の新規事業開発メンバーとスタートアップ企業のメンバーがガラス張りの研究スペースに入居し、刺激を与えあう創造の拠点だ。共用部のカフェテリアも、とてもおしゃれである。

キャプション

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。