2021.2.2/東京都江東区のSCSK豊洲本社にて

【東京・豊洲発】長年、住友商事で要職を歴任し、3年前からSCSKで経営の舵取りをしておられる田渕正朗さん。若い頃のお話を聞いて学究肌であるとお見受けしたが、議論だけしているのは嫌いだとのこと。「決めて動く。ダメだったら変える。朝令暮改でもかまわない」という言葉は、常に重要な意思決定を求められる経営者のみならず、若いビジネスパーソンにも失敗を恐れない勇気を与えてくれる。「一番やってはいけないのは、決めないこと」。シンプルだが、胆に銘じたい一言である。

(本紙主幹・奥田喜久男)

文武両道の高校時代

猛者たちに囲まれて

事前にプロフィールをいただきましたが、学歴のところに大阪府立北野高等学校卒業と入れてくださいというご要望がありました。北野高校には強い思いがおありなのですか?

プロフィールにもちょっと引っかかりをもたせようと思い、自分が大阪人だということを強調してみました。北野高校は、私が最も多感な時期を過ごし、人格形成の場でもあり、いまでも当時の友人とのつき合いがたくさん残っている大切な学校なのです。

北野高校といえば、全国でもトップクラスの優秀な高校ですが、十三(じゅうそう)というこれまた全国でも指折りの歓楽街のそばに立地しているんですね。

はい。最寄りの十三駅からは、歓楽街を通り抜けないと高校にはたどり着けません。勉強だけでなく、社会の裏側も見ることのできる学校でした(笑)。

なるほど、いろいろなことが学べると(笑)。ところで田渕さんは、さぞかし幼い頃から優秀だったのでしょうね。

小・中学校までは普通の子ですよ。勉強はまあまあできて、スポーツをやっても足が速かったものですから、周囲からは秀才視されることもありましたが、井の中の蛙でしたね。北野高校には大阪じゅうから猛者が集まって来ていました。こういう人たちと切磋琢磨してやっていかなければならないと、大いに刺激を受け、頑張ろうと思いました。

高校に入って、新しい世界が広がったわけですね。

でも、ただ勉強ひと筋というのではなく、自由でバンカラな校風でした。先生も個性的で、例えば、いきなり白文(句読点や返り点、送り仮名などがついていない原文)の漢詩を配り、意味を書けといったまま生徒を放置する漢文の先生がいたりして、そうしたことも刺激になりました。私の高校時代は、勉強しているか部活動に打ち込んでいるかのどちらかでしたね。

部活動は何をされていました?

サッカーです。北野高校は毎年、同じ大阪の進学校である天王寺高校と定期戦を行っているのですが、天王寺高校の一学年上に元日本代表監督の岡田武史さんがいました。当時、岡田さんはセンターハーフのポジションで攻守両方の司令塔を務めていましたが、誰も彼の保持するボールにさわれないんです。すごいレベルの選手がいるなあと思いました。

岡田さんには以前この対談に登場していただいたことがありますが、「私はどこに人が動けば、前に進めるかわかってしまう。だから私の指示通りに動けばいい」とおっしゃっていました。

まさにそんな感じでした。その定期戦で岡田さんたちを相手に戦ったことが、私のサッカー人生のハイライトなんです。

学者向きではないと悟り

総合商社の道を選ぶ

大学でもサッカーを続けられたのですか。

いいえ、サッカーは辞めて、大学では徹底して勉強しようと本気で考えました。最初は大阪の自宅から京都まで通っていたのですが、通学時間が惜しいので友達の家に居候するようになり、ずっと本ばかり読んでいましたね。

どんな本ですか。

専攻の経済学をはじめ、思想的な本もずいぶん読みました。京都大学では、1回生、2回生でも一般教養だけでなく、ある程度専門科目も履修できました。そのため、3回生のときには、卒業に必要な単位はすべて取ってしまいました。

それはすごい。

ただ、2回生までに経済学をマスターしてしまおうと一生懸命勉強したわけですが、どうも面白くない。つまり、自分は学者向きではないと悟ったわけです。

学者向きでないとは……。

経済学の理論はリアリティに欠けると感じ、実体験に基づく腹落ち感がなかったということです。だから、大学の途中からは、早く社会に出たいと思うようになりました。

就職先に総合商社の住友商事を選ばれるわけですが、その理由は?

私が入社した1980年頃は、日本企業が本格的に世界進出を目指しはじめた時代であり、商社は「ラーメンからミサイルまで」といわれたように非常に間口が広いわけです。この世界ならチャレンジできるかもしれないと思った。総合商社の中でも住友商事に入社したのは、大阪人にとってその選択がごく普通のことだったからですね。両親も「住友なら」と喜んでくれましたし……(笑)。

入社してどんな印象を持たれましたか。

当時は、とにかく早く社会に出て何かやりたかったという気持ちだけで、会社への印象を抱く間もなく、配属が決まったら、ひたすらその仕事に没頭していましたね。

一つのことを決めたら、その一点に集中すると……。

本部長になった頃、若い人たちに「仕事は自分で背負いなさい」とよく話しました。背負うというのは、ただ責任を負うということではなく、その仕事をやり遂げるために必要なこと、たとえば他の人を巻き込んだり、他の企業とジョイントしたりするなどして企画を実行し、総合プロデュースするということです。商社マンは、そうした姿勢であるべきだと思います。私自身、新人の頃から「自分の思うようにやりたい」という気持ちは強かったですね。

最初に担当した製品は何でしたか。

自動車のエンジン部品であるクランクシャフトです。これは当時の住友金属が世界ナンバーワンの技術で製造していたもので、世界中に輸出されていました。クランクシャフトはアメリカでも製造されていましたが、品質がよくなかったり価格が高かったりしたことから、国内メーカーのみならずアメリカのメーカーからの引き合いも多く、シェアがどんどん伸びていったんです。

幸先のよいスタートだったのですね。

はい。これを担当したときから「ミスター・クランクシャフト」になってやろうと仕事にのめり込んだことを覚えています。そして、私にはそろそろアメリカ駐在になるという話が出ていたのですが、86年に大きな出来事が起こります。それは、アメリカのダンピング提訴でした。

日米貿易摩擦の影響がもろに及んできたのですね。(つづく)

限界費用ゼロ社会――〈モノのインターネット〉と

共有型経済の台頭(ジェレミー・リフキン著)

田渕さんが住友商事の経営企画部門の担当役員を務めていたときに読み、ショックを受けたという一冊。今後、商社もオールドエコノミーからデジタルのビジネスにシフトしなければ生き残っていくことができないと、当時策定していた中期経営計画の中心にDXを据えるきっかけとなった。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。