卒業後の進路は?

――卒業後の進路はどんな感じなのでしょうか。

N「本当にさまざまだと思います。大学へ行く人は行きますし。ある意味、時間はあるので、受験する人は学校に頼らず、自分で勉強していましたね。ただ、一般企業に就職する人は少なかった気がします」

――高校生のうちに、進路をどうするのかとか、とりあえず大学は行っておこうかとか、そういう空気はなかったのでしょうか。

N「卒業後のことは卒業したら考えよう、と思っていた人はすごく多いと思います。もちろん、進路について、先生や友達と話したりはしていましたが、卒業後、すぐに動かないと、とは思っていなかったと思います」

K「大学に関しては、なんかジモリって、選択授業があったり、高校から普通の大学みたいな雰囲気があったので、それだったら早く社会に出たいな、と思っていました。知識や学びを深めるとか、自分のいろんな可能性を追求するとか、そういったことは、すでにジモリでやっていて、そこでうまくいかないことも含めて経験しているので」

――俗にいう、将来への不安はなかったんですね。

K「ただ卒業後に、世間とのギャップを”くらう“よ、とも言われていて、僕は大丈夫だったんですが、人によっては、それまでいた世界とのあまりのギャップに、驚くこともあったと思います」

N「わたしはくらいました!(笑) 卒業して初めてのアルバイト先で、敬語が使えないことに気づいて、ものすごくびっくりしたんですね。怒られて…」

――(笑)敬語をそれまで使う必要がなかったんですね。先生にもですか?

N「そうですね。先生のことも、先生とは呼ばないで、あだ名や、呼び捨てで呼んでいました。で、そのまま社会に出て、ギャップにショックを受けたんですけど、そこで、普通の会社に就職しよう、とは思いませんでした(笑)」

――卒業してから音楽の道を歩んでこられたのは、音楽で身を立てるんだ! と一大決心をしたわけではなく、自然な流れだったのかな、という印象です。

K「いや、いまだに音楽で身を立てているというよりは、今は幸いにも音楽に携わらせてもらっている、といった方が正しい気がしますけど(笑) たまたま、一緒に音楽やっている人が、同級生だったりすることも多いですが」

N「ロバート・バーローというユニットでは、5人中4人がジモリ卒業生なんです」

――それはすごいですね。

N「話が早いんだと思います。やりたいことが合致することが多いんじゃないかな」

――ジモリの中に、卒業しても、好きなことをやり続けてもいい空気があったのではないでしょうか。なぜいけないの? というか。だから、ミュージシャンやイラストレーターなど、クリエイティブな職業の人が多いのでしょうね。

K「そうですね、なかには農業に行く人もいて。農業もクリエイティブですよね」

大人たちとの信頼関係

――先生たちも、そこまで生徒に自由をゆるすからには、よほど生徒たちを信頼していたのでしょうね。普通だったら、将来のために今、がんばることを説く先生の方が多いと思うのですが。

K「そういう空気はまったくなかったですね」

N「そういえば、全然そういう先生はいませんでしたね。今まであたり前のことだと思っていたけど」

――こいつらはまあ大丈夫だろう、という感じだったのでしょうね。

K「(笑)そうですね」

N「生徒の方も、最終的にはこの人(先生)を悲しませたくない、という気持ちがあったのだと思います」

K「これは、僕の父の言葉なんですが、“お前はどうせ30代、40代にはがんばるんだから、今は好きなことをしろ”とよく言われていたんです。

今後、自分がやりたいことをやろうとするときに、立ち向かわなくてはいけないことはいくつもあるし、それをむげにしないでひとつひとつ真面目に取り組めばいい、といった意味だと思うんですが、その言葉があるから、今、困難が起こっても、逃げずに取り組めるんだな、と思うことが最近よくありまして。

たぶん、人としてこいつは安心・安全だって思ってくれていたからこその言葉だと思います。十年後のために今がんばっておけ、とかまったく言わないお父さんでした」

――さすが、中学から子どもをジモリに行かせていただけのことはあるお父様ですね。

N「わたしは馨くんとちがって、中高の時、実家にいたので、親にも世の中の大人にも反発していたんですけど、何人か大好きな学校の先生がいて、その先生たちに会いに行く時間がすごく楽しかったんです。当時の校長先生が大好きで、よく放課後、校長室に入り浸っていました」

――校長室に行くっていうと、普通は怒られるイメージですよね。

N「なにを話すわけでもなくいて、愚痴を言ったり、あっちの愚痴を聞いたりしていました。美術の先生で、すごく破天荒な人だったんですけど、他の大人とはちがう特別な大人でした。友達でもない、でも他の大人たちともちがう、そんな存在。今、わたしたちも音楽の活動を通じて子どもたちに会うことで、そんな存在になれてきているのかな、という気はします。

K「いろんな人間がいるんだよってことは、僕らの普段の活動でも大事にしていることです」

――インタビューの初めの方の話に戻りますが、中学という難しい時期を迎えている子どもたちには、両親以外のいろんな大人に接する機会があればあるほど、自立や生き方の見本になりますよね。今後の活動にも期待しています。今日はどうもありがとうございました。

インタビューを終えて

インタビュー当日は大雪で、帰る頃には本降りになっていたのですが、馨さんと野々歩さんは玄関先まで、筆者とカメラマンを見送ってくださいました。もう家に入られたかな、と振り返るたびにまたお二人の姿が目に入ることを繰り返すこと数回、私たちが角を曲がるまで見送ってくれていたのです。

これには感激しました。こんな見送られ方を親戚以外の人にされたことは、正直初めてでした。

お二人のやさしさも、やりたいことを存分にやることを許された自由の森学園で過ごしたことと、決して無関係ではないと思い、帰途につきました。

【自由の森学園中学校・高等学校】
所在地:埼玉県飯能市小岩井613番地

【取材協力】
松本野々歩(まつもと ののほ)
ロバの音楽座」のリーダー。松本雅隆の長女。ロバハウスで、音楽と古楽器に囲まれて育つ。
田中馨と共に、幅広い層に人気のアコースティックバンド「ショピン」の他、音楽、踊り、モノ作りなどを通して ーあそびー を考えるユニット「ロバート・バーロー」のメンバー。
CMソングや、様々なアーティストのコーラス、ワークショップなどの音楽活動の他、
生まれ育ったロバハウスで、自身の企画する音楽イベントも開催している。

田中馨(たなか けい)
元SAKEROCKのベーシスト。現在は自身のプロジェクト「Hei Tanaka」、「ショピン」や「ロバート・バーロー」を軸に「トクマルシューゴ」や「川村亘平斎」をはじめ、数多くのミュージシャンと音楽活動のほか、舞台作品や映像作品などの音楽も担当する。

2015年 東京芸術劇場「気づかいルーシー」、2016年 PARCO劇場「ボクの穴、彼の穴。」、2016年 さいたま芸術劇場「1万人のゴールドシアター」音楽担当。
2016年 Eテレ「いないいないばぁ」楽曲提供(「マックロカゲロン」)。
2018年より、ベネッセ「こどもちゃれんじ」アレンジ、曲提供。