徳川慶喜役の草なぎ剛

 「私はあの頃からずっと、いつ死ぬべきだったのだろうと、自分に問うてきた。天璋院様に切腹を勧められたときか。江戸を離れるときか。戊辰の戦が全て終わったときか。いつ死んでおれば、徳川最後の将軍の名を汚さずに済んだのかと、ずっと考えてきた。しかし、ようやく今、思うよ。(後ろに控える栄一の方を振り向き)生きていて、よかった。話をすることができて、よかった。楽しかったな」

 12月19日に放送されたNHKの大河ドラマ「青天を衝け」第四十回「栄一、海を越えて」で、主人公・渋沢栄一(吉沢亮)が持参した伝記の原稿に目を通した後、元主君の徳川慶喜(草なぎ剛)が語った言葉だ。

 この場面、2人がここまで繰り広げてきた幾多のドラマ、そして吉沢と草なぎの名演の数々を思い出し、心を打たれた視聴者は、筆者を含めて多数いたはずだ。この後、慶喜は77年の生涯を終え、これが劇中での2人の最後の対面となった。

 なぜこの場面がこれほど見る者の胸を打つことになったのか。それを探る手掛かりとして、この回で描かれたある出来事を振り返ってみたい。

 この回、アメリカでの日本人移民排斥運動に心を痛めた栄一は、民間外交として渡米実業団を率いて全米各地を訪問。特に反日感情の強いサンフランシスコで、現地の経済人たちを前にスピーチを行った。

 この時、直前に盟友・伊藤博文(山崎育三郎)暗殺の報せを受けた栄一は、予定していた原稿を脇に置き、「私は、先日長年の友を亡くしました。殺されたんです」と自らの思いを語り始める。

 「今日だけではない。私は人生において、実に多くの大事な友を亡くしました。互いに、心から憎しみ合っていたからではない。相手を知らなかったからだ。知っていても、考え方の違いを理解しようとしなかったからだ。相手をきちんと知ろうとする心があれば、無益な憎しみ合いや悲劇はまぬがれるんだ。(中略)日本には、『己の欲せざるところ、人に施すなかれ』という『忠恕』の教えが広く知れ渡っています。互いが嫌がることをするのではなく、目を見て、心開いて、手を結び、みんなが幸せになる世を作る。私はこれを、世界の信条にしたいのです。(以下略)」

 振り返ってみれば、栄一はもともと、倒幕を目指す尊王攘夷の志士だった。血洗島の片隅で武家社会の理不尽に憤っていた栄一は、世の中を変えようと奮闘する中、敵だと思っていた幕臣・平岡円四郎(堤真一)との出会いを経て慶喜と巡り会う。そして、慶喜の下で商売の才能を見出されたことが、実業家としての活躍につながっていく。

 仮に、若き日の栄一が外国人の居留地を襲撃する“横濱焼き討ち計画”を決行し、実際に倒幕に加担していたら、その後の人生、引いては明治以降の日本の発展はあっただろうか。

 一方の慶喜も、冒頭の言葉にあるように、維新期のどこかで命を絶っていたら、栄一による伝記編さんはなく、真実を後世に伝えることはできなかったはずだ。(余談ながら、この伝記は1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」でも資料として用いられている)。

 つまり、栄一がスピーチで語ったことは、栄一と慶喜の間で起きた出来事そのものであり、2人の関係には本作が掲げてきた「生き抜く」というメッセージの全てが凝縮されていたように思える。そう考えると、「青天を衝け」は、「栄一と慶喜の関係の物語」だったともいえる。

 冒頭に記したやり取りの後、第一回冒頭で描かれた乗馬中の慶喜を栄一が走って追いかける初対面の映像が挿入されたが、2人の関係の始まりは、このときの慶喜の「言いたいことはそれだけか」というそっけない一言だった。

 それが、50年近い年月の中で、共に幾多の困難を乗り越えてきた結果、「生きていて、よかった。話をすることができて、よかった。楽しかったな」と和やかに語り合うに至った。

 吉沢自身も事前のインタビューで「この作品のテーマを語っている場面」と振り返っていたが、栄一と慶喜の最後の対面が私たちの胸を打つのは、そんなふうに「生き抜く」ことでたどり着ける未来の希望を見せてくれたからではないだろうか。

 次はいよいよ最終回。伝記編さんを通じて慶喜の思いを受け止めた栄一が、この物語にどんな形で幕を引くのか。この1年の物語に思いをはせながら、しっかりと見届けたい。(井上健一)