2022.4.4/東京都千代田区のアイデミーにて

【神田小川町発】「東大出の若きITベンチャー起業家」という人は、いまの世の中、おそらくたくさんいるのだと思う。でも「7年間も歌舞伎子役を経験した東大出の若きITベンチャー起業家」というのは、おそらく今回お話をうかがったアイデミーの石川聡彦CEOだけであろう。小学5年生まで子役を務め、歌舞伎の世界を離れた理由は「声変わり」だったと聞いて意表をつかれる。養子に入らなければその先はないという梨園の常識とはいえ、そうした人生の転機もあることに改めて気づく。

(創刊編集長・奥田喜久男)

目の前で起きたパラダイムシフトが

起業の引き金となる

石川さんは東京大学在学中に起業をしてアイデミーの前身となる会社を設立されましたが、まずはその経緯についてお話しいただけますか。

私は2011年に高校を卒業し、その翌年、東京大学の文科三類に入ったのですが、その12年はみんながスマートフォンを持ちはじめ、前年の東日本大震災をきっかけとしてLINEが急速に普及した年でした。

ガラケーからスマホへ、ミクシィからフェイスブックへ、ブログからツイッターへというパラダイムシフトが起こり、まさに私はその変化を体感したんです。

2011年から12年にかけて大きな区切りがあったと。石川さんの場合は、大学に入ってすぐという鋭敏な時期に、そうした大きな変化を目の当たりにされたのですね。

フェイスブックの創業者マーク・ザッカーバーグも在学中に起業したと知り、自分も世界を変えられるかもしれないと、少し舞い上がっていましたね。

ザッカーバーグからは、だいぶ刺激を受けましたか。

そうですね。勘違いした部分もあるかもしれませんが、早くビジネスをやってみたい、事業をつくってみたいと思うようになりました。

ということは、何らかの技術を事業化したいというよりは、まずは起業と。

どちらかというとそうですね。ただ当時は、コンピューターサイエンスを専攻したザッカーバーグのように、世界を驚かせるような創業者は理系出身でなければならないと思っており、文系で入学したものの、3年時には工学部に進みました。

サイトにある「アイデミーでは全員が科学者です」というフレーズが印象的でしたが、石川さん自身もビジネスを成功させるために「科学者」に転じるという背景があったわけですね。

大学時代、ビジネス系のサークルに入って、学生ビジネスコンテストの運営に携わっていたのですが、そのサークルの先輩に当時から注目されていたユーグレナ社長の出雲充さんやラクスル社長の松本恭攝さんなどがいました。その出雲さんも、文系から理系の農学部に転じられた方でした。そうした先輩起業家の話を聞いていると、変化を自分の手でつくってみたいという起業への思いがどんどん膨らんでいったんです。

いわゆる「東大ベンチャー」として創業されたのですか。

工学部3年生だった2014年6月、21歳のときに創業したのですが、当初はまったくお金がなかったので自宅の賃貸マンションで仕事を始め、銀座にあるバーチャルオフィスの住所で登記をしました。月1000円で利用できるサービスがあったんです。本郷キャンパス内にある東大ベンチャーのオフィスを借りていたのは2018~20年ですから、だいぶ後のことですね。

大学入学直後の「パラダイムシフト」で刺激を受け、それからわずか2年で起業に踏み切ったわけですね。

ストイックな歌舞伎の世界から

新たなチャレンジに踏み出す

なぜ、石川さんは「世界を変える」といった大きな志を抱くようになったのでしょうか。

志というよりは、あこがれのようなものかもしれません。先ほどお話しした、一気に世の中を変化させるようなサービスに対するあこがれの気持ちから、自分の手で変化を起こしたいと思うようになったのです。

小さな頃から、そういった志向があったのですか。

そういうことを考えるようになったのは、中学2年生くらいからですね。もう少し小さい頃にさかのぼると、幼稚園の年中から小学校5年生までの7年間、私は歌舞伎の子役をやっていたんです。

えっ!? 歌舞伎ですか。お家は梨園と何か関係があるのですか。

いいえ、父は普通のサラリーマンで、母は専業主婦です。

ということは、片岡愛之助さんのような人生を送る可能性もあったのですね(笑)。ところで、どうして歌舞伎の子役を?

親の方針ですね。4歳くらいのことですから、私自身は気づいたら舞台に立っていたという感じです。子どもなのに正座ができて、黙ってじっとしていられるから評価されたようなのですが、歌舞伎座の中にある稽古場でとても厳しい先生にいつも叱られていました。小学校時代は、そういうストイックなカルチャーの中で育ったのです。

歌舞伎役者の道を選ぶ可能性もあったのですか。

声変わりをすると子役ではなくなるのですが、私は梨園出身ではないので、歌舞伎役者を続けていくためには養子に入る必要がありました。一般家庭に育った子役は養子に入らなければ、歌舞伎を卒業するということですね。

そのタイミングで、石川さんは歌舞伎を選ばなかったと……。

我慢が足りなかったのかもしれませんが、そうしたストイックな世界に対する反発心が次第に大きくなっていったことは確かですね。

厳しい歌舞伎の世界を離れてから、生活は変わりましたか。

その後中学受験をして、中高一貫の進学校に入ってからは、いままでできなかったチャレンジをしたいと思うようになりました。

歌舞伎、中学受験と、厳しい世界をくぐり抜けた後は、ある意味、精神的にも解き放たれたのでしょうね。具体的にはどんなチャレンジをしたのですか。

そのうちのひとつは、オークションサイトでモノの売買を実際に体験したことですね。もちろん中学生ですから、親の協力を得て、親のアカウントでモノを売ったり買ったりしたのですが、その市場性や価格など、中学生の世界観とネット上の世界観に大きなギャップがあることが刺激的でした。

なるほど、ネットを通じて別の世界を見たと。そのほかに、中学・高校で力を入れたことはありましたか。

中学・高校と部活は卓球部でしたが、高校では文化祭実行委員長も務めました。みんなが集まってひとつのイベントをつくることがとても楽しかったんです。

それは、ベンチャー企業のあり方に通じるところがありますね。

そうですね。自分には、フリーランスで活動するよりも、チームをつくって新たなサービスを提供するほうが合っているように思います。

(つづく)

大学時代に所属していたビジネス系サークルの

最終報告書

本文でも触れているが、石川さんは会社を設立する前に、学生のビジネスコンテストを主催する「Business Camp King」というサークルに所属し、2013年にはその代表を務めた。自身の起業の原点をつくったサークルだったと、石川さんは振り返る。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。