もう一人の語り手・桑原サトルは、教室の中でも空気に徹していた少年だ。いわば「ぼっちのプロ」。「修学旅行でも、体育で二人組をつくれと言われたときも、いついかなるときも、ぼっち状態をすばやく完成させてきた経歴」の持ち主だ。彼には級友には存在を秘密にしている兄がいる。兄は自閉症で、勤め先の工場と家との行き帰りにはサトルが付き添っているのだ。兄に必要とされていると考えることで、サトルは存在意義を感じている。
 その桑原サトルも合唱部に入部するのである。校庭で行われた、部員勧誘の合唱を聴き、魅かれたからだ。

 ――柏木先生が腕をふる。さざなみのように声がひろがった。それは声というよりも、あたたかい水のようだった。幾重もの声がかさなって、渾然一体となり、だれのものでもない歌声となる。整列した女子生徒を中心に、音楽があふれだし、校舎にはさまれた中庭に満ちていく。歌いはじめのとき、窓辺でおしゃべりをつづけていた生徒たちは、いつのまにか無言になり、全員が中庭の合唱部員たちを見つめていた。

 思春期の男子と女子との間に起こるいざこざを描きながら、作者は中学生という限られた時期にしかない心情を優しく紙の上に写し取っていく。仲村ナズナの一人称がいつも「私たち」であるのは印象的だ。声を一つに合わせる行為をとても大事に考えるナズナにとって、合唱部としての私たち、五島に生まれ、今ここに共にある私たちは、切り離すことのできない自分の一部なのだ。初めは不純な目的で集まってきていた男子部員たちも、やがて合唱の魅力にとりつかれたかのように練習に夢中になっていく。「全員の声が合わさった音のうず」の中にいることの愉悦を、桑原サトルは、まるで覚めてしまった夢を懐かしむかのように語る。

 ――それはとてもあたたかくて、このうずのなかにずっといたいとおもえる。その瞬間だけは、孤独もなにもかもわすれる。でも、長くは続かない。全員がそれを維持したいとおもっているのに、やがてだめになってしまう。たぶん、練習不足のせいだ。声がすこしでもずれた瞬間、魔法は消え去って、僕たちはまた一個人にもどっていく。

 誰の人生にも一度は訪れる、魔法のような瞬間を描いた小説だ。臨時顧問の柏木先生は、部員たちに「十五年後の私」へ向けた手紙を書くように告げる。そこに綴られた言葉のひとつひとつを、読者は自分への私信のように感じながら読むことだろう。きらめきを放つ時間からやってきた言葉を、まぶしく目を細めながら私は読んだ。
 『くちびるに歌を』という小説には何も奇を衒ったところはなく、青春小説としては常道の道筋を通って結末へと向かっていく。桑原サトルのときめくような恋のエピソードがあり、兄と家族と合唱部員とが一つの場に居合わす美しい情景があり、カラフルなドロップに託された記憶の物語がある。こうした美しいものたちが一つにまとまり、ずっとそこにくるまれていたいという広がりを作り出す。そのことだけで小説は充分であり、その優しさに触れていたいがために読む小説というものがあるのだということを、この作品は読者に思い出させてくれる。
 ここから発した美しいものが、少しでも遠くに届きますように。

すぎえ・まつこい 1968年、東京都生まれ。前世紀最後の10年間に商業原稿を書き始め、今世紀最初の10年間に専業となる。書籍に関するレビューを中心としてライター活動中。連載中の媒体に、「ミステリマガジン」「週刊SPA!」「本の雑誌」「ミステリーズ!」などなど。もっとも多くレビューを書くジャンルはミステリーですが、ノンフィクションだろうが実用書だろうがなんでも読みます。本以外に関心があるものは格闘技と巨大建築と地下、そして東方Project。ブログ「杉江松恋は反省しる!