2023.4.21/京都府亀岡市のMOON studioにて

【京都・亀岡発】京都駅からJR嵯峨野線でおよそ30分。さらに車で亀岡市郊外の山あいの道をしばらく上っていくと、自然の手触りが感じられるヒビノさんのスタジオが姿を現わす。取材中、528Hzの音楽とはいかなるものかと考えていたら、ヒビノさんが小さな筒形のスピーカーをスタジオ内にいくつか配置しはじめた。豊かな新緑に彩られた戸外を眺めつつ、しばらくその曲の世界に没入する。そして、曲が終わったとたん、現実に強く引き戻された気がした。ここで初めて、その効果が実感されたのだ。

(本紙主幹・奥田芳恵)

父の残した借金返済の後

ライブハウス経営を成功させる

ヒビノさんは、2015年に「心と体を整える~愛の周波数528Hz~」でCDデビューされています。このメジャー・デビューはおいくつのときのことですか。

54歳ですね。

失礼ながらだいぶ遅咲きかと思うのですが、「528Hz」については後ほどお話しいただくとして、まずはここに至るまでの道筋についてお話しいただけますか。

もともと音楽は大好きで、入学した関西学院大学では軽音楽部に入りました。歌手になりたくてボーカル志望だったのですが、同学年にその後シンガーソングライターとしてデビューし、いまはニューヨークでジャズピアニストとして活動する大江千里、一学年上に作曲家でピアニストの羽毛田丈史さんがいて、なかなか壁は厚かったですね。

ということは、大学卒業後、すぐに音楽の道には進まれなかったのですね。

そうですね。当時はまだバブルで景気がよかったこともあり、ピアノバーやレストランなどの飲食店経営に携わりました。祖父が乗馬クラブを経営していましたし、父も滋賀や京都で飲食チェーンを展開していたので、そうした商売人の血筋の影響もあったのだろうと思います。

まずはビジネス面で才覚をあらわしたと。

ところが、私が32歳のときに父が亡くなったのですが、亡くなってみて初めて、父が大借金を抱えていることがわかりました。その返済をするのに10年以上かかったんです。銀行取引停止となったため新たな借り入れを起こすこともできず、バブル崩壊によって事業も縮小せざるを得ませんでした。

たいへんな30代を過ごされたのですね。

そんなことでどうしようかと思っていたら、滋賀の浜大津にあった店舗の大家さんから「ワンフロアまるまる空いているので何か商売はできないか」と持ちかけられ、ライブハウスを開くことにしたんです。

いよいよ音楽との接点ですね。

いや、それはまだ先の話です。新しいライブハウスを成功させるためには、ふつうにやっていてもダメです。そこで私が料理好きということもあって、ミュージシャンたちに美味い食事をつくってタダで提供したんです。胃袋をつかむ作戦ですね。そして、前日に移動してくるバンドには楽屋に宿泊してもらうようにしました。彼らにとっては経費も浮きますし、ご飯を楽しみにして来てくれます。この作戦は見事に功を奏し、けっこう有名なバンドが演奏してくれるようになりました。

ちなみに、どんなバンドが来ましたか。

たとえば、MONGOL800や175R(イナゴライダー)などですね。彼らは全国ツアーをしているので、そのポスターなどにうちのライブハウスの名前が入ります。するとファンの方は、北海道の会場でも沖縄の会場でもその名前を目にすることになるわけで、このライブハウスはファンの方々に広く認識されるようになったんです。

すばらしいアイデアですね!

他人のプロデュースではなく

自分の才能で食べていきたい

でも、あるとき、ふと我に返りました。10年後の自分の姿が見えてしまったのです。

ライブハウスを成功させたのに?

平均して月間26日稼働というすごい結果を収めたものの、実は収益として手元に残るのはドリンク代の500円のみで、それ以外の売り上げはすべてイベンターの取り分となっていたのです。

そのとき見えた10年後の自分は、会場の入り口でその500円を若いお客さんからちまちまと受け取っている姿でした。このままではいけないと思いましたね。

それは、ヒビノさんがやりたいことではなかったと。

はい、それに気づいたということですね。そして、滋賀から飛び出して東京か大阪でビジネスを成功させたいという気持ちになりました。でも、滋賀のライブハウスを成功させたというだけでは強力な実績になりません。

そんなとき、びわ湖バレイというスキー場の方から、イベント企画の依頼がありました。スポーツ離れと少子化、温暖化などの影響で、スキー場に集客できない状況を何とかしたいと。

どのようなイベントを仕掛けたのですか。

当時流行していたレゲエで踊るイベントです。3年間で4回興行し、延べ4万人を動員しました。

この実績をもとにしてどこに打って出ようかと考えていた矢先、かつての同級生でカフェチェーンやホテルなどを展開する上場企業の経営者から声がかかります。それまで仕事の縁は一切なかったのに、わざわざ事務所を用意してくれて、私はヒルトン大阪のディナーショーや堺まつりの総合プロデュースなど、大きなイベントの仕事に関わることになります。

お話をうかがっていると、次々に音楽やイベントプロデュースのお仕事が舞い込んできて、引く手あまたという感じですね。

そういうお話をいただくことはありがたいのですが、いくらイベント制作の仕事を続けても同じことの繰り返しという側面は否めません。

40代半ばになり、かつて大学時代に志したピアニストや作曲家として生きていきたい、他人のプロデュースではなく自分の才能で食べていきたいという気持ちが強くなってきました。

ついに、音楽家として生きていこうと決意されたのですね。

そうですね。年齢的にもこれがラストチャンスではないかと考えました。ただ、ピアニストや作曲家になるにしても、現実を見たらどのジャンルも満員だったのです。

満員?

クラシックもジャズもポップスも、私が入って活躍する余地がないように感じたのですね。

どのジャンルでも、新規参入することは容易ではないと。

そんなとき、私の頭に浮かんだのはもともと興味をもっていた周波数のことでした。150年前の昔から「ラ」の音は440Hzと決められているのですが、音の周波数と人間の自律神経には密接な関わりがあるといわれているんです。

なるほど。それが冒頭でふれた「528Hzの音楽」の話につながっていくのですね。後半では、そのあたりのお話を詳しくうかがいます。(つづく)

ヒビノさんが描いた油絵「祈り」

昨年10月にリリースされたオリジナルアルバム「INORI」のCDジャケットに使われた作品。TSURUGI名義で描かれたこの油絵のイメージから曲をつくると、ヒビノさんは説明する。「全部自分でやりたい」という気持ちが、楽曲と絵画の世界観の一致をもたらしたのである。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。