シェアリングサービス「LUUP」を事例にして「乗り物」と「道」の分かち合い方や、そのルールについて考えます

【新たなテクノロジーとの向き合い方を考える 第1回】最初に本シリーズの趣旨として、私たちはどのようにITやDXとつきあってゆけばよいのでしょうか。特にその「ルール」をめぐって、哲学や社会学などの人文社会科学の視点から考えてゆきます。今回は、1人乗りの小型電動モビリティ・シェアリングサービス「LUUP」を事例にして、「乗り物」と「道」の分かち合い方や、そのルールについて考えます。

問題の所在

「道」には人だけではなく、いろいろな「乗り物」が走っています。それだけに、いろいろなことが起こっています。最近の話題だけでも、

・大手IT企業による自律走行車の開発

・自転車でのヘルメット着用の努力義務化

・自転車違反への青切符対応化

・無免許による電動キックボード走行事故の発生

・スケートボードの五輪競技採用

・歩道を走る電動アシスト自転車の迷惑運転

・シェアリングサービス「LUUP」の台頭

などなど、「道」を走る「乗り物」の話題は事欠きません。「移動の自由」が憲法によって保障されている一方で、多くの人がいろいろな目的でそれぞれ利用している以上、安全性や公共性などの観点から、どうしても「ルール」の共有や規制も必要になってきます。

そうした「自由」と「規制」のはざまで、私たちは、今、そしてこれから、どのように「道」と「乗り物」にかかわっていったらよいのでしょうか。

以下では、シェアリングサービス「LUUP」を具体的事例として、今「道」で何が起こっているのか、これまでどういった経緯があったのか、そして、これからどうなってゆくのか、探ってみます。

シェアリングサービス「LUUP」とは

「コロナ禍」が起こってから、つまり、2020年代に入ってから、通勤や通学に公共交通機関を用いずに徒歩や自転車やキックボードなどで済ませたり、また、休日には朝からサイクリングスーツを身にまとって遠距離を自転車で疾走したり、街中での移動スタイルが大きく変わってきたと感じます。

電車や地下鉄、バスといった公共交通機関、自家用車、バイク、タクシーといった選択肢だけでなく、徒歩や自転車などでの移動の機会が増えているという印象を受けます。

中でも特に注目したいのは、電動アシスト付自転車のシェアリングサービスです。これまでも「レンタサイクル」や「レンタカー」「カーシェアリング」などはあったわけですが、「電動」の1人乗りの小型の「乗り物」が近所のコンビニや空きスペースに配備されていて、手軽にスマホのアプリを使って利用できるようになったことで、より注目度が高まっていると言えるでしょう。

実際のところ、近場への買い物や散歩はもちろんのこと、オンラインでのフードデリバリーサービスの配達に用いられていたり、名所巡りをする観光客に利用されていたりと、シェアリングサイクルが利用されているシーンは、それほど珍しいものではなくなってきています。

こうした、「小型」「電動」「一人乗り」のモビリティを、電動アシスト付自転車に限定することなく、電動キックボードやこれから登場する新たな乗り物までをも視野に収めた「近未来」「次世代」のモビリティの「シェアリングサービス」のあり方を追求しているのが「LUUP」(ループ)です。

移動のためにかかってしまう環境負荷をできるだけ抑えることを目指し、利用開始から支払・返却手続きまでをすべてスマホで済ませられることから、次世代型の交通サービスの一つとして大きく注目を集めています。

<コラム>LUUP(ループ)

1人乗りの「電動マイクロモビリティ」のシェアリングサービスの名称で、東京都千代田区に本社があるLuup社(2018年創業)が事業展開しています。スマホのアプリを使って登録を行えば、各地のポートに置かれている電動キックボードと電動アシスト自転車が基本料金50円に加えて1分15円で利用できます。利用できる地域は、東京都や横浜市、大阪市、京都市、神戸市、名古屋市、宇都宮市などです。

シェアリングサービス「LUUP」は、新しいテクノロジーを活用して、環境に配慮しつつ「道」を自由に往来する選択肢を増やしているわけですが、これまで自動車に対してバイクや自転車がそうであったように、新たなツール(乗り物)が登場したとしても、そう簡単には「道」を自由に闊歩できるというわけではありません。

今まで「道」を利用してきた他の乗り物や徒歩の人などとのあいだで、必ずトラブルや事故が起こり、お互いが安心して使えるようなルールづくりや法整備などの調整が行われてゆきます。

例えば、漕がずに自走ができてしまう電動自転車が登場した際には、これまでの「電動アシスト自転車」と区別され、「ペダル付原動機付自転車」つまり「原付バイク」とみなされました。「ペダル」がついているから「自転車」のように見えますが、要は「電動バイク」に振り分けられたわけです。

「LUUP」の場合は、23年7月に施行された新たな道交法で、自走できる「ペダル付原動機付自転車」(原付バイク)や、他の「電動キックボード」(=原動機付自転車)とも区別され、「特定小型原動機付自転車」と位置付けられました。

「特定小型原動機付自転車」は、16歳以上という年齢制限がありますが、免許不要で乗ることができます。ただし、乗る前に、交通ルールテストの全問・連続正解と年齢確認書類の提出が義務化されています(これもスマホでその場で済ませることができます)。

速度は20km/h以上は出ないようになっており、大枠は自転車と同じような交通ルールとなっています。

自転車もヘルメット着用が努力義務になっており、さらには26年頃より交通違反への青切符対応が始まる見込みとなっている等、次第にルールが厳しくなっていますが、新たに普及のはじまった「LUUP」は「自走型」であることから、最初からいろいろな制約が課せられている、と言えるでしょう。

これまでも、子どもを乗せた電動アシスト自転車が、人がたくさん歩いている歩道をそれなりの速度ですり抜けて運転する姿をよく見かけるなど、「自走型」でなくとも、危険運転への懸念は以前よりありましたので、こうした法整備やルール遵守を初発からしっかりと執り行うことは、「道」を分かち合って利用する上でとても大切なことであることは言うまでもありません。

ただ、ここでは、そうした「規制」の面だけではなく、その根底にある、どのように私たちは「道」を分かち合いながら、一人ひとりの「自由」や「幸福」を広げようとしているのかという点に着目したいと思います。

こうしたことを大局的に俯瞰するために、まずは、道と人類とのかかわりの歩みを振り返ってみます。

道と人類のこれまでの歩み

これまで私たち人類は、「道」に対してどのようなかかわり方をしてきたのでしょうか。当然のことながら、最初は自分の足で移動する「歩行」からはじまりました。ヒト族(ホミニン)は700万年前から直立二足歩行できるような骨格を持っていた、と言われています。

また、直立二足歩行を行ったアウストラロピテクスの「足跡」が発見されていますが、それはおよそ350万年前のものである、とされています。いずれにせよ、途方もなく長い歴史があります。

そもそも、他の動物と人類とのあいだに決定的な違いが生まれたきっかけは、「直立二足歩行」にあると言っても過言ではないでしょう。直立二足歩行によって、両手が自由に使えるようになり、さまざまな道具を作ることができるようになりました。

また、脳の発達を促し、言語が使えるようになり、記憶とコミュニケーションの両方の力を増大させました。ロボット開発がこれだけ進んできていても、簡単には直立二足歩行が実現できないことからわかるように、「歩行」は、人類が得た、最大の「生きるための技術」と言えるでしょう。

20世紀の後半に文明批評家のイバン・イリイチは、1974年に出版した「エネルギーと公正」という本のなかで、交通やエネルギーの問題に対して文明史的な視座から批判と提言を行いました。

移動=交通には根本的に「自律移動」と「他律移動」といった二つの様式(モード)があるのであって、この両者は「自律移動から他律移動へ」といった一方向・不可逆的な発展のプロセスとしてとらえるべきものではなく、両者をバランスよく活用することによって、より一層生産性や豊かさが上がり、より自由が拡大する、としました。

「歩行」は当然のことながら「自律移動」です。もちろん「歩行」と言っても、マラソンや飛脚がそうであるように、単に歩くことだけではなく、「走る」ことも含まれています。

他方、「他律移動」は「モーター乗物」つまり「原動機」で走る車を指します。その意味では「LUUP」も「他律移動」にあたるように見えますが、「特定小型原動機付自転車」として定義されたことからわかるように、「原動機」は付いているものの「自律移動」のための乗り物であると区分されたわけです。

<コラム>イバン・イリイチ(Ivan Illich, 1926-2002)

20世紀後半に活躍した文明批評家・思想家。現代社会において私たちの暮らしの豊かさや自由を支えているはずのモーター交通や学校教育、病院医療、賃労働といった社会の「制度」がかえってマイナスに作用してしまう閾を指摘し、元来人間が「土地や地域に固有の力」(=バナキュラー)に支えられて培ってきた「学ぶ」「移動する」「癒す」「老いる」「死ぬ」「働く」といった「自律の力」に基軸を置く社会や文化の可能性を追求しました。特に「脱学校論」は1970年代に世界的に議論が巻き起こり、その後のフリースクールなど学ぶ機会の多様性への道を切り拓きました。また、そこで提唱された「ラーニング・ウェブ」の理念は、その後、誰とでも自由につながりコミュニケーションをとることができるインターネットが整備される際に大きな影響を与えました。さらには、近年注目を浴びている、これからの経済や社会のあり方を模索する「脱成長」論の元祖でもあります。

歴史的には、この「徒歩」に次いで、ロバ、牛、象など、他の動物に乗っての移動がありましたが、「馬」での移動が行われるようになるまでは、他の動物に乗った移動は「自律移動」の範疇に収まっていました。

乗馬による移動がはじまるのは、紀元前3000年前ほどと言われており、原初的には「他律移動」が乗馬によってはじまった、と言うことができます。しかし、「乗馬」は「生き物」による移動ですから、「生き物」ではなく「原動機」を使ったような「他律移動」が一般化するのは、もっと後の話です。

その前にまず、紀元前3000年前には「車輪」が考案されます。「車輪」を使って他の動物に曳かせたり、他の人間が押したり引いたりするようなことが、主に「輸送」の面で起こります。

その後「車輪」は、とりわけ「ボールベアリング」という不思議な技術によって、飛躍的に速度と効率性を高めます。「ボールベアリング」は、「車輪」の回転する軸のところに摩擦の少ないボールを配置し、その回転によって運動エネルギーを効率よく各所に伝えることができるため、「車輪」を「輸送」だけでなく「移動」においても大きな変化をもたらしてゆくことになります。

一般的に、乗り物の歴史は、人や動物以外の力で動かすことができた時点で、つまり「原動機」によって、大きな変化が起こったとされますが、それよりも先に、「車輪」に「ボールベアリング」を加わったことによって、「自律移動」に対してもイノベーションを引き起こします。

コラム<ボールベアリング>

ボールベアリングの発想の原点は、古代にさかのぼり、重たいものを運ぶ際に、丸太を敷いて地面との摩擦を減らしたところにあります。図にあるように、この仕組みをくるりと360度回転させて輪にすると、ボールベアリングのある車輪となります。18世紀に発明され、19世紀以降、自動車や自転車を中心に普及し、今では、LUUPはもちろんのこと、自動車や電車、飛行機、さらには風力発電機にも使われています。

この「ボールベアリング」を使った「車輪」によるモビリティは、なんとなく、「自転車」から始まった、と思われるかもしれません。しかし、実はそうではありません。蒸気で走る自動車の登場は18世紀後半で、自転車の発明はそれよりも少しあとの19世紀初頭と言われています。言い方を変えると、「ボールベアリング」は、自転車のような「自律移動」のモビリティよりも、人間や他の動物の力を用いない「他律移動」に活用されました。

19世紀後半になって、蒸気で走る自動車、自転車の後に、ガソリンで走る自動車が生まれ、その後、20世紀に入るとガソリンで走る2輪車(バイク)も登場しますが、100年ほどの間、「道」を走る主流はガソリンで走る自動車であり、自動車を中心として「道」が整備されてきた、と言えるでしょう。

変化があったのは20世紀後半になってからです。エネルギーや地球環境の問題が国連の重要な課題となり、ガソリンの代わりに水素や電気で走る自動車が開発されるようになりました。また、21世紀に入ってからは、情報・通信技術の高度化により自律走行車の実用化が目指されています。

もちろん、ガソリン車からEV車に変わることや、自律走行車が公道を走ることは、これからの社会に大きな変化を与えてゆくと思いますが、「道」を「自動車」が走っていること自体は、それほど大きくは違っていません。

一方、自転車にも電化の流れがやってきて、電動アシスト付自転車が20世紀後半に登場し、21世紀に入ると、子どもを保育園・幼稚園に連れてゆく親の乗り物として需要が伸び、現在に至っています。

かつては「ママチャリ」と言えば「シティサイクル」を指す言葉でしたが、今や「電動アシスト付自転車」が「ママチャリ」となりました。

ここ数年は、新型コロナウイルスの影響もあって、通勤や通学、または買い物など近距離の用事などには自転車の利用が増え、電動アシスト付自転車のシェアリングサービスも目立つようになっています。ほか、キックボードや電動車椅子などの利用も目立つようになりました。

さらには「電化」の流れに加えて、スマホを中心としたビジネス・商行為へのシフト、また経済性や利便性などの見地からも「シェアリング・エコノミー」が推進されるなかで、「乗り物」も「私有」や「自家用」ではなく「レンタル」や「シェア」される傾向にあります。

<コラム>シェアリング・エコノミー

「お金を持っている」(資産を持っている)ことで、欲しいものが買えて、自分の所有物として使うことができるものが多ければ多いほど、暮らしは「豊か」になる――そういった前提で資本主義経済はこれまで営んできたわけですが、すでに19世紀においてカール・マルクスは「私的所有」を目指さない社会、個人のお金や持ち物を増やさなくても幸せになれる社会、すなわち「共産主義社会」というものを構想していました。「シェアリング・エコノミー」は、こうした、「私有」ではなく「共有」をもとにした経済活動を推し進めようとする考えです。

例えば「自家用車」は、実用化された当初は高価で、ごく一部のお金持ちだけが買えたにすぎませんでした。しかし、その後、多くの人が自分も「マイカー」を持ちたいと願い、一生懸命働き、手に入れる、ということが「幸福」への第一歩となってきました。

しかし時代が変われば意味合いも変わるものです。今では自家用車へのニーズが以前よりもそれほど高くなくなり、必ずしも自動車を「所有」しなくてもかまわない、という風潮になってきました。

「自分のもの」として持っていることにこだわることなく、時々使いたいときに乗れればそれでよい、ということで、「シェアカー」へのシフトが起こりはじめたわけです。「Uber」のタクシーもその拡張路線とも言えるでしょう。

そして今、「道」には、多種多様な「乗り物」が行き来するようになりました。「自律移動」の度合いが高いものから順に並べると、次のようになるでしょう。

「道」の占有率は、今のところ圧倒的に自動車が高く、次いで、バイク、歩行者、自転車、キックボード、といったところです。近年は「専用道路」や「車道」における「専用通行帯」が増えている自転車の占有率が高まっていますが、「歩道」での通行も多いため、事故が多発するなど、課題も多く抱えています。

しかし、興味深い実験結果があります。都市部において、5キロ圏内の移動を行ったとき、バス、自動車、鉄道、自転車のなかで最も速いのは、自転車だったと言います。

自動車は、入出庫や駐車、信号待ちなどがあり、バスは停留所での乗り降りがあることから、また、バスや鉄道は目的地の近くまでは行っても停留所や駅から目的地までは歩く時間があるため、例えば、自宅から学校や職場までそのままスムーズに移動できる自転車に軍配が挙がりました。しかも、10キロ圏内でも自転車と自動車は3分くらいの差しか出ないようです。

もちろん、重い荷物を持っていたり、雨風を防ぎたかったり、複数人で同じところに移動するといった場合には、ほかの選択肢がありますが、「一人乗り」で近距離移動をするのであれば、速度の面で自転車は何らバイクや自動車に劣っていないことは確かです。

交通事故と規制

こうして、いろいろな「乗り物」が行き交う「道」では、当然のことながら「事故」が後を絶ちません。

ただし、よく言われているのは、自動車の事故死は減少傾向にある、ということです。1970年頃がピークで年間1万6000人を超えたときもありますが、今では、2000人台にとどまっています。また、バイクの事故死も平成元年(1989年)で年間2500人超とピークでしたが、その後、減少傾向にあり400人台にまで下がっています。

死亡事故は確実に少なくなっていますが、むしろ「事故」はもっと身近なところで起こっています。ふだん「歩道」を歩いていてもっとも心配なのは、電動アシスト付自転車の乗り入れです。車体が重く、歩行者にぶつかると危険ですし、しかも、子どもを乗せているため、加害者側でも被害が生じる恐れがあるため、戦々恐々としています。

また、電動アシストのない自転車も、スマホ操作をしながらの運転や逆走、信号無視、歩行者を優先しない歩道での走行など、これまでは交通違反があっても大目に見られてきましたが、やはり危険性が増してきていることから、令和8年度(2026年)より青切符が適用されることが令和6年(24年)3月、閣議決定されました。

一方、電動キックボードは、事故が起こるたびにメディアで話題にされることもあり、どうしても「あぶない乗り物」というレッテルを貼られがちです。

もちろん、確かに事故は起こっており、それを無視するつもりは毛頭ありませんが、大切なことは、事故数が増えていたり、死者が出たりしたときに大騒ぎすることではなく、これまで見てきたように、社会や「道」において、電動キックボードが何をもたらしているのか、ということを見失わないことだと思います。

これまでみてきたように、「道」の利用は、当初の区分けとしては、自動車(二輪を含む)と自転車・歩行の二項対立で考えられてきました。イバン・イリイチは、この問題を、「他律」と「自律」といった「移動」にかかわる二つの様式(モード)を社会がどのように位置づけるべきなのか、という形で問題化していました。

他律(モーター乗り物)

自律(自らの足で移動)

その結果、1970年代の当時、モーター乗り物を減らして、両者の均衡点にある自転車の積極的な活用を訴えました。先述したような自転車の速度の優位性についても、かつてイリイチは、ロンドンのような都市部で自動車や公共交通機関よりも自転車のほうがスムーズに移動できるという調査結果を引用していました。

また、時速20キロあたりを超えると都市部ではむしろ交通渋滞が生じ「逆生産性」が生じてしまうことから、高速度にのみ価値を置く社会のあり方を変えるべきだと主張していました。しかし、こうした考えは「無限成長の神話」のなかにいた70年代においてはあまりにも突飛すぎてなかなか受けれられませんでした。

しかし、その後、20世紀後半より、いろいろな変化が生まれ、何よりも、根本には地球環境問題への取り組みの本格化が起こり、目指す方向性は「持続可能な発展」(SDGs)や「カーボンニュートラル」となり、その流れのなかで「シェアサイクル」のような「シェアリング・エコノミー」が生まれてゆきました。

<コラム>モビリティーズ研究と速度の政治学

「シェアリング・エコノミー」のような事態は、実は「経済」においてのみ起こっていることではなく、いろいろな局面で見ることができ、「社会」そのものが大きく変わりはじめている徴候と言えるでしょう。これまでは「モノ」を持っていることに価値があるとされてきたのが、今では「関係」や「流れ」や「ネットワーク」を中心に暮らしや生き方を考えるようになってきました。以前であれば、「道」や「自動車」などを「モノ」としてとらえ、その「所有」や「領有」していることに幸福を見出していたわけですが、それが今ではインターネットやさまざまな乗り物を「共有」しつつ適宜活用することに主眼が置かれるようになっています。「乗り物」に焦点を当てれば、「自家用車中心の社会」から「多様なモビリティの社会」への転換が目指されているわけです。イギリスの社会学者ジョン・アーリーはこうした視点から「移動の社会学=モビリティーズ」研究の道を切り拓きました。またフランスの思想家ポール・ヴィリリオは「速度の政治」において、これまでの社会のあり方の変遷を「速度」や「道」の領有の視点から分析を行い、いかにそのときどきの「交通」の様式が私たちの暮らしや物事のとらえ方に大きな影響をおよぼしてきたのかを明らかにしました。前述したイリイチの「エネルギーと公正」と併せて、重要な研究です。

その後、今日に至るまで、「道」や「交通」「速度」をめぐる議論はずいぶんと進んでおり、近年では、例えばフランスが「交通権」を成立させ(=「国内交通方向付け法」1982年)、歩行や自転車など、自動車を中心とした「他律移動」を特権視せず、さまざまな「自律移動」と「併存」できるようなあり方が目指されています。

さらに、世界各地に目を向ければ、都市部の「道」には大きな変化が起こっており、米西海岸やテキサス州の主要都市、ベルリン、ストックホルム、オスロ、ワルシャワ、コペンハーゲン等では、かなりの数のマイクロモビリティが普及しています。

また、充電器の技術改良などもあり、「電動」でありながら「自律移動」を支える「中間領域」のモビリティが話題を呼んでいます。

・電動アシスト自転車

・電動キックボード(特定小型原動機付自転車)

・電動車いす

ここで、私たちは「LUUP」を通じて「道」や「乗り物」の現状を見つめなおし、これからの私たちのモビリティ・ライフ・スタイルの方向性を探ることができます。「automobile」はこれまで「自動車」を意味してきたわけですが、21世紀においては「自律」的(=autonomous)な移動を可能にする乗り物は、この「中間領域」のモビリティではないかと思われます。

すなわち、「LUUP」はこうした「自律」と「他律」の「中間領域」のモビリティを「シェアリングサービス」として実用化した点において、「自律移動」の権利を広げる、大切な役割を担っていると言えます。

もちろん、現状としては、必ずしも「自動車」を中心とした「道」のあり方が簡単には変わりませんが、確実に、21世紀のどこかで、自律走行車と、電動自律移動モビリティ(電動アシスト付自転車、電動キックボード、電動車椅子、一人乗り小型自動車)も「道」の主役になっている日がやってくるのではないでしょうか。(フリーランス・シンカー 瀧本往人)

瀧本往人

フリーランス・シンカー。哲学を専攻したのち、並行して工学の研究・実践を行う。