国立観客動員1・2位は東京五輪、3位は早明戦

堀江翔太  ©JRFU, Photo by RJP K.Demura

なぜ、国立競技場は最後にラグビーを選んだのか。ラグビーを愛好する者の勝手な見解だが、ラグビーと国立競技場が、愛し、愛されてきた関係だからである。

ラグビー選手が国立でプレーするには、大学生は、全国大学選手権でベスト4まで勝ち残るか、早稲田大学か明治大学に入学してラグビー界随一の人気を誇る早明戦に出場するしかない。社会人チームは、全国社会人大会で優勝し、大学王者との日本選手権でしかプレーできなかった。複数参加に大会方式が変更された今でも日本選手権の上位しかプレーすることはできない。国立競技場は、ラグビー選手なら誰もが目指し、憧れる特別な場所なのである。

この場所で人気カードが開催されるようになったのは、秩父宮ラグビー場が改修工事に入った1973年からだ。まずは、早慶戦、早明戦が行われた。

1975年1月15日、社会人王者と大学王者の一騎打ちだった日本選手権が初めて国立競技場で行われ、近鉄が早稲田大学を下している。日本代表の名ウイング坂田好弘(近鉄)の引退試合であり、早稲田のキャプテンは大学生にしてすでに日本代表入りしていたフランカー(FL)石塚武生だった。

その後、日本ラグビーは黄金時代を迎える。全国社会人大会(2002年度で閉幕)は、原則として近鉄花園ラグビー場と秩父宮ラグビー場で隔年開催されたが、国立競技場でも数回開催されている。

印象深いのは、1985年1月6日の新日鉄釜石と神戸製鋼の戦いだろう。いまや伝説となった釜石の「13人つなぎ」のトライが生まれた試合である。釜石は前人未到の社会人大会7連覇を達成。全国大学選手権で初の3連覇を達成した同志社大学との日本選手権は注目を集めた。当代一のスター選手であり、引退を決意した松尾雄治(釜石)と、時代を担う若きリーダー平尾誠二(同大4年)との対決も花を添え、国立競技場史上4番目の観客動員、6万4636人を記録している。

スポーツにおける国立競技場の観客動員1、2位は、1964年東京オリンピックの閉会式と開会式である。このときは特別に観客席が増やされていたので当然なのだが、歴代3位の記録を持つのが、1982年の早明戦なのだ。

早明戦人気が隆盛を極めたのは、1970年代後半から1990年代初頭だ。1979年、早稲田に本城和彦が入学すると人気は一気に沸騰する。甘いマスクでさっそうとフィールドを駆ける本城は「プリンス」と呼ばれ、一世を風靡した。1981年の早明戦では、名将・大西鐵之祐の指揮の下、絶対不利を予想された明治を倒し、翌年の早明戦は、満員札止めの、6万6999人。観客は通路にまであふれ、最上段は立ち見。まさに、立錐の余地なしとは、このことだった。