ポップ・ミュージックがこの世の美しいもの、楽しいものすべてを代表するジャンルだったのは、いつの時代までの話なのだろうか。
というより、ポップ・ミュージックはいつ日本に上陸し、いつ去っていったのか。
いや、まだ日本にいるよ、というのなら、ぜひ隠れていないで顔を出してください。
意地悪しないで、この暗い世界を照らしてよ。
桜庭一樹『傷痕』は、もしかするともう日本にいないのかもしれない存在が、とりあえずは舞台の中央からは退場していくことから始まる小説だ。
ポップスターの中のポップスター。
世間の人は、畏怖の念をこめて彼をキング・オブ・ポップと呼ぶ。
幼いころに父親によって音楽の才能を見出された彼は、やがて兄弟で結成されたユニットのリードヴォーカリストとしてスターの地位にのしあがる。そこで終われば、よくある早熟の天才の物語に過ぎない。だが彼の進撃は止まらなかった。ユニットを離れ、孤高の天才となった彼は、さまざまな活動を通じてノーベル平和賞の候補にまで推挙される。一方で幼いころから芸能界入りしたという特殊な生い立ちのために奇行に走るようになったと噂されるようにもなる。銀座にあった名門小学校が廃校になったと聞きつけ、校舎と敷地を買い取ったのが20代後半のとき。そこに奇妙な改造を施し、自らの楽園に立て篭もるかのように隠棲し始めて、奇人との評判を定着させることになった。
“世界の友人”か。
“偉大なる変人”か。
その偉大なるポップスターが、51歳で急死してしまうのだ。楽園には、1人の少女が残された。11年前のある日、キング・オブ・ポップがどこからか連れてきた彼の娘だ。ポップスターは彼女に奇怪な仮面を与え、城壁の外に出るときは必ずそれを着用するようにさせていた。残酷な好奇心の視線から娘を護るためだ。母親の名前は明かされず、ポップスターを護るガードマンたちでさえ、娘の顔を見ないこと、直接話しかけないことを雇用の条件にされていた。
もしかするとこの世の美しいもの、楽しいものすべての代表者だったかもしれない男が、唯一の対象として愛した娘。11歳。名前は傷痕。小説の題名はそこから取られている。
その生い立ちや暮らしぶりを知って誰もが連想するように、キング・オブ・ポップのモデルはマイケル・ジャクソンである。そうした意味ではモデル小説といえる作品だ。マイケル・ジャクソンは小児性愛者として告発を受けたが、そのエピソードも本書には盛りこまれている。キング・オブ・ポップスもまた、楽園へと招待した少女から同様の告発を受けるのだ。
ただし桜庭はマイケル・ジャクソンという個人を重要なモチーフとして用いながら、もう少し普遍性をもったものを画布の上に描き出そうとしている。1つはポップスターがまとった雰囲気であり、それによって醸し出される気分である。もう1つはスターがたまたま居合わせることになった世界の戸惑い、躊躇とでもいうべきものだ。ポップスターはまばゆい。そしてそのまばゆさのすべてを1人の人間が受け入れることは不可能に近い。
雰囲気であり気分であるものは、太陽のようにまばゆく、それゆえに遠い。
第2章で、人生でただ一度だけ彼の手に触れたことがあるという思い出を語る男性はこう形容する。彼は「うつくしくて色とりどりの自然にあふれた孤島のような存在」であり「誰もがみとれて、憧れるけど、かといって深く足を踏みいれることはけっしてできない場所」なのだ。
地球上のどこかにある楽園にキング・オブ・ポップは同定される。彼の居城である“最後の楽園”も彼の存在の一部だ。ロアルド・ダールが描いたチョコレート工場が、主であるウィリー・ワンカその人の延長であったように。だからこそ主を失うと、建物を囲んでいた「濃い緑の蔦」による侵食が始まり、すべてが退廃の中に堕ちていくように感じられはじめるのである。楽園を維持していた輝きは、すべて主から発していた。
このように遠く、まばゆすぎるがゆえに、人はそのすべてを受け入れることができない。第3章に登場する、キング・オブ・ポップのスキャンダルを狙うジャーナリストは、拒否反応を示してしまった人の典型だ。受け入れることができないために、憎むのである。まるごとの対象を受け入れることができなければ、自分の身の丈にあった大きさに貶め、蔑むしかない。これは嫉妬の感情だ。『傷痕』は嫉妬を描く小説であり、巨大にはなれない自分を憎む人の話でもある。第4章では、かつてキング・オブ・ポップを告発する側にまわった女性が語り手をつとめる。少女だったころの彼女は復讐(ヴェンデッタ)と呼ばれた。それはいったい何の復讐なのか。誰が誰に、何が何に復讐するのか。彼女の口から題名である『傷痕』についてのもう1つの意味が語られたときに、読者は小説のおぼろげな輪郭を意識するだろう。
私はポップ・ミュージックの魔法がどこかに去って久しいと感じている。自分がおとなになり、魔法を受け入れられなくなっただけなのかもしれない。『ピーターパン』のウェンディのように、魔法にかかるには大きくなりすぎただけなのかもしれない。キング・オブ・ポップは私のそばにはもういない。
本書を読んで連想したのは、宮部みゆきが3部作として手がけている現代ミステリー『誰か somebody』と『名もなき毒』の結末だった。人間の心の暗い面を淡い色合いで描き出したこの小説は、その最後に昭和のあるポップスターを登場させる。それが、黒い絵の具が垂れて台無しになってしまった水彩画を救う魔法であるかのように。ポップスターの歌声が、すべてを美しく染め直してくれると願うかのように。いや、それは祈りであっただろう。同じ祈りを、私は『傷痕』からも感じた。
みなが祈っている。世界よ、美しく、そしてポップに楽しくあれと。