ドキュメンタリーとは視点を明確にする手法だと思う。
映画館でドキュメンタリーを好んで見る人ならばもはや「客観的であるべき」という意見を絶対だと考える方が少ないのではないだろうか。
近年話題になった作品を挙げるが、そのどれもが一筋縄ではいかないものばかりだ。想田和弘監督は「観察映画」と明言することで本編中に説明を排した意図を観客に伝え、『アクト・オブ・キリング』は再現を劇中に取り込み、マイケル・ムーア監督は「マイケル・ムーア」を演じ続けることで世界を変えようとした。僕はドキュメンタリーにはまだ開拓されていない余地があると思う。
ところで『劇場版テレクラキャノンボール2013』が提示した視点は「これはゲームである」ということだ。
女性を点数制で競い、男たちは笑い転げ、悔しがる。時には涙する者も現れ、恐ろしいほどのテンションが観客にも伝わるが、それは共感ではない。
「びっくりする話とへーって話、どっちが聞きたい?」なんて言葉でナンパが出来るのは限られた人間だ。テレクラで自分よりも大きな女性と出会って平然としてられる自信もない。スピード違反をしながらビデオカメラを地面スレスレで撮るなんて、免許を持ってるからこそ怖くて出来ない。
僕らは『テレキャノ』に映る人たちを憧れの眼差しで見ているが、それは体を張って互いに競い合うからこそ笑えるのだ。例えばカンパニー松尾監督の『私を女優にして下さい』シリーズのように私的な視点で撮られた作品だったら、僕らはカメラと同化した感情を共有し、息苦しいほどの緊張感を強いられることになっただろう。
僕はそんな松尾監督作品をダウナー系と呼んでいるが、『テレキャノ』はアッパー系だからこそ受けたのだ。その結果が昨年、映画館だけでなくライブ会場やイベントホールといった非劇場でも上映が続き、動員は1万人を超えたそうだ。さらに映画誌の年間ベストにさえランクインする快挙を成し遂げた。
その勢いで作られた『劇場版BiSキャノンボール2014』は「ゲームである」という線引きを引き継いでいる。お馴染みのメンバーがBiSを騙す形で点数を稼ぎ、彼女たちがライブで歌う間にそれぞれの映像を見て競い合う。