2026.5.20/大阪市中央区のセレンディクス大阪事務所にて

今回お話をうかがった飯田國大さんは、10代の頃から国を豊かにしたい、社会をよくしたいという大きな志を抱き続けてきた。とはいえ、若い時分は高級車に乗ったり、高級時計を身に付けたり、一流のホテルに泊まったりするステータスを求めたそうだ。でも、それが経営者のゴールではないと気付いたのは、多くの先輩経営者の背中から学ぶことができたからだという。いま携わっている事業も斬新ながら、おそらく初志に基づいたものであるのだろう。

(本紙主幹・奥田芳恵)

高校卒業後壮大な志を抱いて政治家を目指す

飯田さんは、現在、セレンディクスのCTOとして3Dプリンター住宅の開発・販売という革新的な事業に取り組まれていますが、ここに至るまで、どんな道筋を歩まれてきたのでしょうか。

私の名前は國大(くにひろ)といいますが、小さな頃から、自分は国を大きくすることをすべきだと考えていました。それで、高校卒業後の数年間、政治家を目指して選挙の手伝いや議員秘書の仕事に携わりました。

それはまた、壮大な志を抱かれていたのですね。じゃあ、小さい頃からお勉強もよくされていたのでしょう。

ところが勉強は大嫌いだったんです。本はよく読みましたが、学校の勉強は苦手でしたね。

私は生まれてすぐはとても体が弱くて、親に厳しくされることはあまりありませんでした。ただ幼稚園に入ってからは、習字、バイオリン、ボーイスカウト、英語など、毎日のように習いごとに通わされて、それを高校3年までずっと続けたんです。

高校3年までですか。それはすごいですね。

でもそれだけ続けると、逆に好きでなくなってしまうものです。

そういうものですか。ちょっともったいない気もします。

それで、小・中・高を通じて、先生たちからは相当な変わり者だと思われていました。

それはどんなところが?

例えば高校生のとき、生徒会長の応援演説でシャネルズのように顔を真っ黒に塗って舞台に出ていって、いろいろやり過ぎたことがありました。このときは、先生に壇上から引きずり降ろされてひどく怒られましたね。また、文化祭で歌を唄いながら池に飛び込んで、先生に怒られたこともありました。それから、在学中に結核にかかり入院したことがあったのですが、退院した日に学校の屋上に上がり、そこからバイオリンを弾きながら自分の教室に入っていったこともありました。

何がそうさせたのでしょうか?

たぶん、当時は承認欲求が強かったのでしょうね。だから、そうした行動をとっていたのだと思います。

ところで飯田さんは、商業高校に通われて、大学進学をされずに、一時は政治家を目指されたわけですが、そこにどんな経緯があったのでしょうか。

高校受験のとき、先に私立の男子校に合格していたのですが、実は男子校にはどうしても行きたくなかったんです。それで、なるべく女子の多い公立高校はどこかと先生に聞いて、商業高校を選んだというわけです。

なかなかストレートな発想からの高校選びですね。

それで高校を出たらすぐに政治家を目指そうと考え、大学に行く必要はないと思い込んでいたのです。ばかですね。

「国を大きくする」という志はあるにせよ、具体的に政治家を目指すきっかけはあったのですか。

当時、細川護熙首相の連立内閣が発足した頃で、世の中に社会を変えたいという空気が高まっていたことが、一つのきっかけだったように思います。でも、どうしたら政治家になれるのかは、依然として分からないままでした。

そんなとき、遊説の企画運営をしている会社から、そんなに政治家になりたいなら、今度選挙があるから手伝ってみないかと声を掛けられたのです。

初めての起業で業界トップの地位を獲得する

具体的にはどんなお仕事だったのですか。

遊説車の仕事ですから、下働きです。遊説スケジュールに合わせて、福岡県全域を運転して回りました。

政治家になるためにどうすればいいか分からないとおっしゃいましたが、そのお仕事を通じてどんな学びがありましたか。

県知事や県議の選挙を手伝い、私は政治家になるためには無給でいいと国会議員の秘書にもなったのですが、ある議員の選挙での敗戦の弁を聞いて気付いたことがありました。

それは「私はクリーンな政治家を目指していましたが、クリーンなだけでは誰も助けてくれない。もちろん、真っ黒な政治家など許されるはずもない。だから灰色を目指すべきだった」との話でした。灰色を目指すというのもどうかと思いますが、これを聞いて私は、自分のお金を持たなければ政治家にはなれないと悟ったのです。

無給で働いてきた結果、そういう結論にたどり着いたというのはちょっと皮肉ですね。

このとき、政治家になるためにはとにかくお金を稼いでからと経営者の道に進み、実際は政治の世界に戻ることなく現在に至っているわけです。

最初の会社、デジタルプラザを設立されたのが1997年ですから、20代半ばで最初の起業をされたのですね。

この会社では、デジタルカメラの画像データを送ればそれをプリントしてお客さんの自宅に送るサービスを提供し、事業を開始して4カ月で業界トップになりました。当時、インターネットで集客する業者が多い中、私たちは家電量販店経由で、デジカメを購入したお客さんに無料プリント10枚付きのPC用アプリをCD-ROMで配布したんです。

そのアイデアで業界トップですか!

当時は若かったのでタレントの叶姉妹を起用し、2億円ほどかけてテレビCMを打ったり、私自身も400回くらいメディアに出ました。でも、デジカメの画像をプリントする文化は育ちませんでした。だから、最終的には事業転換せざるを得なかったのです。

とはいえ、現在の3Dプリンター住宅にしても最初のデジカメプリントにしても、手掛ける事業のジャンルが異なるにもかかわらず、着想すること自体なかなかできないことだと思います。

自分はジャンルにかかわらず「ゼロイチ」が得意なんです。

そして、それを迷わず実行することもなかなかまねのできないことと思いますが、その力の源泉はどこにあるのでしょうか。

高校生のとき、ある先生から「不可能という言葉があるが、それはあなたが挑戦を諦めた瞬間に初めて不可能という結論が出る。同じことにずっとチャレンジし続ければ、あなたが諦めない限り、不可能というものは世の中に存在しない」と言われたんですよ。

だから、ある高い目標を掲げて、その目標に向かうプロセスを一つずつクリアしていけば必ず目標は達成できると思いますし、実際にそうした経験を重ねてきた自負があるんです。

後半では、もう少し飯田さんが手掛けたビジネスのお話をうかがいたいと思います。

(つづく)

12年間、いつも一緒の愛犬

それまで動物に興味がなかった飯田さんが、ラオスの町のペットショップで一目惚れしたワンちゃん。でも、そこで購入したのは飯田さんが選んだ犬ではなく、奥様のところにトコトコと近付いてきた別の犬だったそうだ。帰国時の検疫手続きには思いのほか時間と手間が掛かったそうだが、いまも家族の一員として大切にされている。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

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※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。