――才能って何だろう? 天才ってどういうことだろう?
この問いが支配する小説だ。
これまで数多くの才能を世に送り出してきた小説界の登龍門、小説すばる新人賞の第24回受賞作である。題名は『サラのやわらかな香車』、作者の橋本長道は1984年生まれで1999年に中学生将棋王将戦で優勝し、その後プロ棋士を養成する新進棋士奨励会に入会、1級まで昇給するも2003年に退会したという経歴の持ち主だ(その後神戸大学を卒業し、2010年にジャンプ小説新人賞フリー部門特別賞を受賞)。題名と経歴から察せられるとおり、これは将棋の小説である。
将棋と聞いて身構えてしまう読者は多いことだろう。でも大丈夫。すべてのボードゲームにおいて才能がないと小学生のうちに宣告された筆者でも(む、むごい……)この小説は楽しむことができた。対局の模様はたとえルールがわからなかったとしても息詰まるサスペンスを醸し出す。そして何より魅力的なのは、冒頭に書いたとおり、人に才能があるというのはどういうことかという、普遍的な問いかけが全篇にわたって繰り返されることである。
よく知られているとおり、新進棋士奨励会には年齢制限がある。そこに入会してくるのは、みな地元では天才、神童と将来を嘱望された者たちだろう。しかし現実は残酷である。「地元の神童」たちの多くは、やがて己の限界を自ら知ることになるのだ。天を掴むべく昇り続けていける者と、階段の途中で立ち止まってしまう者の力量の差は、驚くほどに明確である。その違いがいつ、どこで生まれるのかは、永遠に答えの出ない問いなのだろう。かつて自身も奨励会の一員として天を目指した橋本も、幾度となくその問いを噛み締めたはずだ。
――遊びながらでも悠々と抜けていく者もいれば、一流アスリートに匹敵する訓練を積みながらも壁を越えることができない人間もいる。考え尽くして出てくるのはあの魔の言葉、「才能」だ。彼は結局それだけの才能がなかったのだ――。迷いに迷った末、その一言で片付けるのが、先人からの知恵だった。
小説の中心にいるのは護池・レメディオス・サラ、日系の父とブラジル人の母の間に生まれた少女だ。彼女は、ある日突然、運命の気まぐれのようにこの世界に現れた。
将棋界の若きエース、石黒竜王と第一人者である芥川名人とが名人戦でぶつかった。七番勝負の第五戦、対局室から少し離れた場所にある市民ホールでは、一般客を入れての大盤解説(ボード状の巨大な盤面を使った、一般向けの局面解説)が行われた。その途中、後手の芥川名人が長考に入り、会場の観衆向けに「次の一手クイズ」が出題されたのである。プロの指し手であれば、指すと予想される候補手は限られてくる。それを予想し、当てさせるのだ。
その場に現れたのがサラだった。司会を務めていたプロ棋士の二人は、金髪と碧い瞳、白い肌の天使のような風貌を持つ少女が会場に出現したことに驚き、彼女に「次の一手」を聞いてしまう。黙考の果てに彼女が答えた一手は、突飛過ぎて到底首肯できるものではなかった。しかし30分後、その場にいた全員が信じられない事実を知ることになる。対局室で芥川名人が指した68手は、まさしくサラの選んだその一手だったのだ。驚愕のあまり、咄嗟に賛美歌を歌い始めた者さえいた。なぜその手を選んだのか、と問われ、サラは一言だけ答えたのだという。
リンドゥ。
lindo――ポルトガル語で「美しい」という意味の言葉だ。
それから四年後、サラは再び世間に姿を現す。瀬尾、26歳でパチプロとして生計を立てている男がその仕掛人だった。彼もまた、かつて奨励会に属していた若手棋士の一員だったが、やはり年齢制限で棋界を去ることになった。プロ将棋の世界に深い愛憎の念を抱く瀬尾は、自らの手でそれを破壊することを望んだ。その彼が出会ったのが、護池・メレディオス・サラだったのだ。無邪気に将棋盤と戯れるサラに、彼はすべてを賭けた。
橋本の描く対局場面は非常に感覚的であり、臨場感に富んでいる。将棋の駒をまともに触ったことさえないのに、耳元に駒を盤面に打ちつけるピシッという音が聞こえてくるようだ。サラとその他の女流棋士たちとの交わり、闘いの模様を描きながら話は進んでいく。棋士たちは皆、それぞれの存在を賭けた闘いに挑んでいる。その中で唯一異質な雰囲気を漂わせるサラはいったい何を思うのか。そして天は彼女という存在を通じて何を語ろうとしているのか。その関心によって最後まで一気に読まされてしまう。
これは自分自身を信じられなくなったときに読むべき小説なのかもしれない。天のさだめは皮肉であり、決して必要なときに知りたいことを教えてくれない。自分自身にどんな才があるのかは、すべてが終わった時に振り向いて知るしかないのだ。そんなもどかしさに捉われている人に、ぜひ本書を読んでもらいたい。目に見えない何かを求めてあがき続けることの美しさを、思いもかけなかった方角から照射する光によって教えてくれる作品だ。護池・レメディオス・サラ。彼女の作り出す情景に、思わず息を呑んだ。