彼らのライブに必要不可欠な「振れ幅」
『夏のコスモナウト』と『双星プロローグ』は、そもそも歌うのが難しい曲が多い(あの『全力少年』も安易にカラオケで歌おうとすると本当に難しくて泣きが入ります→過去記事『これがポップスの新しい基準/スキマスイッチ『musium』)スキマスイッチのレパートリーのなかでも「サビのメロディが鬼のように難しい曲」の5本の指に入ると個人的に思っているのですが、その2曲を軽々と歌いこなす大橋卓弥に、いまさらながら圧倒されます。
いや、正確に言うと「歌いこなす」という次元ではありません。歌えるのは当たり前で、音源よりすごい表現力とパッションで見事に歌い上げるのです。いや、うーん、でも歌い上げるという言葉に付属する、どこかイキっている感じもまったくないのです。もっと厳密に言うと、彼はステージでただ「歌っているだけ」でした。
これは常田真太郎をはじめとするバンドメンバーもそうでした。やっていることは、ただステージで演奏しているだけ。この日の彼らは終始、「音楽をやっているだけのひとたち」だったのです。
さて、人にスキマスイッチのイメージを尋ねたら、少なくない確率で「親しみやすい」という言葉が返ってくると思います。
自身もライブのMCで「僕らは音楽をやっているだけの、普通の人間です。身近に音楽を楽しんでほしい」という主旨の発言を繰り返しているし、この日もそういう言葉を語っていました。その言葉に嘘はないし、自分も彼らのそういうところが好きなのは事実です。
一方、そもそも音楽とは、もっと言うとポップスというものは、ひとの欲望や快楽を増幅させるある種の劇薬でもあります。音の集合体を聴いただけで体を動かさずにはいられなくなり、我を忘れるほどの多幸感を得てしまうって、よく考えるとかなりヤバいことでしょう。
この日のライブでは、スキマ史上最高に独善的でだからこそ甘美なラブバラード『願い言』から、エモーショナルな叙情性が爆発する激名曲『僕と傘と日曜日』への流れに震えました。
“親しみやすい優しいお兄さん”という顔をしながら、スキマスイッチのポップスに潜む魅惑的な暴力性がみごとに開陳されたシークエンス――こういうゾッとするような瞬間をライブに忍ばせる振れ幅もまた、いまのスキマスイッチの音楽に欠かせないものなのです。