ずんぐりとした、蝶の幼虫のような移動は、映画『クロユリ団地』の1シーンで見せた、両腕をだらりと下げたまま、もはや自分が人間であることを忘れたかのような、放心の動きに相当する。

前田敦子には、前田敦子にしかなしえぬ映画的アクションがあり、それが衝撃的に発揮されたのが『クロユリ団地』なのだが、そんな彼女だけの活劇に、『毒島ゆり子のせきらら日記』で遭遇することになろうとは!

つまり、前田敦子は、映画で培った演技表現のすべても駆使しながら、新たな境地を切り拓いている。

そして、このドラマでは、彼女の試みと蓄積が衝突することなく、融合している点が特筆に値する。

7話の終盤で「わたし、地獄に堕ちるかも」と彼女は口するが、あの発声にはさまざまなものが、穏やかにとぐろを巻いていた。あくまでも日常的な言葉として発せられながらも、そこには後悔と諦めと侮蔑と覚悟と不安と、ほんのちょっぴりのときめきとが、絶妙なブレンドを達成させていた。

では、そのときめきとは何か。

人が、未知の領域に踏み出すときに、否応なく生まれ、零れ落ちる「不確かなもの」に他ならない。その行き先が、たとえ地獄であろうとも、逃げずに立ち向かっていく者は、必ず、そうしたときめきを有している。

それは、ひょっとしたら、自分はすべてを失い、破滅してしまうかもしれないという危険の裏側にある、もしかしたら、これまでの自分のすべてから解放されるかもしれないという希望にも似た何かに他ならない。

かつて、前田敦子は「正体不明の生きもの」として、銀幕に君臨していた。

わたしなどは、それゆえに、彼女に吸引された。そこには、他の誰にもない唯一無二の存在感があったからだ。

いまの前田敦子は違う。人間の「不完全さ」を、さまざまなファクターを混ぜ合わせ、ぐちゃぐちゃのまま「不確かなもの」として、さらしている。

絶対的なものから、絶対ではないものへ。
唯一無二から、普遍的な存在へ。
前田敦子は、あらんかぎりの勇気と共に、進化と深化の途上にある。

かつてインタビューしたとき、彼女はこう言った。

「自分が難しいことを目指していることは、わかっています」

難攻不落を前にしたとき、初めて、その人間の度量が試される。

第8話ではいよいよ、前田敦子の、現在進行形の真価が「ヌード」になるだろう。
どう「脱ぐ」のか、どう「脱がされる」のか。
わたしたちは、それを目に焼き付けなければならない。