前田敦子は、「脱皮の季節」を生きている
設定上、ゆり子の動揺と踏ん張りが功を奏した面はある。また、レフリー役のバカリズムの的確なパスワークと采配が、かなりの助力になったとも考えられる。
だが、カットを割っているとはいえ、あれだけ修羅場な長丁場をほぼ3人だけで乗り切るためには、各人に「息をどう回すか」という自覚が必要になる。
この場面に限らず、このドラマは常に毒島ゆり子が主軸になる作品だけに、前田が息切れしてはいけない。
もし、前田が息切れしてしまったら、スリーピースのロックバンドのドラマーが、ぼろぼろのリズムを叩くようなもので、楽曲=作品を崩壊させかねない。
とりわけ、この第8話は、新井浩文からの、バカリズムからの演技=演奏を、どう受けとめ、どう返すかが焦点であったと思う。
必死なだけではダメで、緩急を意識した冷静な芝居の呼吸が欠かせない。
だが、それを、前田は見事にやってのけた。
しかも、単に「うまい芝居」というような味気ないものではない。多義的に開かれた表現として着地していた。
冷徹にリズムをキープしながら、その上で、ゆり子の一色(ひといろ)ではない状況を、鮮やかなグラデーションに染め上げていく。
とりわけ秀逸だったのは、しばしの沈黙ののち、「小津さん」と語りかけるときの呼吸だった。
呼吸とはタイムキープのことであり、時間を「作り上げる」ことである。よく、演技をめぐって「間」というようなことが語られるが、この「間」も、タイムキープが重要になる。
役の感情だけを追いかけていては、タイムキープはできない。芝居の前後を留意しながら、ストリームを形成していかなければいけないのだ。
「小津さん」と声を発するときの呼吸は、それ以上長くても、それ以上短くても成立しない、ぎりぎりの、穴に針を通すような正確さによって紡がれたものだった。
意を決しているようにも見えるし、つい暴発してしまったようにも見える。
弱い女にも見えるし、強い女にも見える。
愚かな女にも見えるし、一途な女にも見える。
崩壊にも見えるし、再生にも見える。
時を止めたようにも見えるし、動き出した時計のようにも見える。
意識と、無意識。
人間が、人間を演じる上で最も重要な、このふたつのファクターの融合が、そこでは成し遂げられていた。
かつての前田敦子は、人物の無意識を、全身で体現していた。
『毒島ゆり子のせきらら日記』の前田敦子は、人物の意識を、技術で表現できるようになっている。
いま、前田敦子は、かつてないメタモルフォーゼ、すなわち「脱皮の季節」を生きている。