2019.12.25/青山学院大学相模原キャンパスにて

阿部さんは、伝説の計算機科学者であり「パソコンの父」といわれるアラン・ケイに師事した。そのいきさつを伺うと、「憧れはあるけれど、接点はないと思っていた。自分にとっては雲上人だった」と話してくれた。「でも、雲は意外と自分の近くにあることに気づいた」とも。やる気さえあれば、どんなにすごい人にも接触できることを阿部さんは身をもって知ったのだ。ちなみに、アラン・ケイはメールアドレスを公開しており、気軽に(?)返信してくれるらしい。(本紙主幹・奥田喜久男)

プログラミングの魅力は現実と異なる自由な世界がつくれること

阿部さんが、初めてプログラミングと出会ったのはいつ頃のことですか。

1977年頃、小学校5、6年生のときですね。

それはどんなきっかけで?

当時、私はアマチュア無線やUコン(模型飛行機)、それに海外の短波放送を聴いて楽しむBCLが好きで、『ラジオの製作』という雑誌を購読していました。そこにアメリカで生まれたばかりのマイコンの紹介記事が掲載されて、「これはなんだ?」と思ったのがきっかけですね。

『ラジオの製作』ですか。懐かしいですね。私は電波新聞社出身で、当時、すぐ隣のデスクがその編集部だったんです。それで、小学生の阿部さんはどうマイコンとふれあったのですか。

私は広島県の海田町というところに住んでおり、広島市内にある電器店までおよそ10㎞あるのですが、そこまで自転車を漕いで行って、ほんの数台展示されているマイコンにBASICのプログラムを数行入力して実行してみたり、友人の持っていたカシオのFX-501Pというプログラム電卓を使わせてもらったりしていましたね。

プログラミングのどこが楽しかったのでしょうか。

小学生のときの気持ちを正確に思い出すことはできませんが、それはおそらく、自分の命令した通りに動くことだったのでしょう。日常生活の中で自分が言ったことが完全に実現するということはありえませんが、プログラミングの場合は、自分の責任において現実の世界とは異なる別の世界が構築できることが大きな魅力であると思います。現実世界に比べて情報量や処理速度などが不足しているという制約はあるものの、自分でルールが決められる、とても自由度が高い世界であるわけです。

自分のコンピューターを手に入れたのはいつですか。

高校1年生のときですね。入学祝いに買ってもらったシャープのPC-1210というポケコンです。

どんな高校生活を送られましたか。

プログラミングをしているか図書館にいるかのどちらかでしたね。

もうどっぷりとその世界に……。ところで、図書館ではどんな本を?

SFオンリーです。いまでもそうかもしれないけれど(笑)。星新一から入って、小松左京、筒井康隆、それに星新一が紹介していたレイ・ブラッドベリ、フレドリック・ブラウン、アーサー・C・クラークあたりですね。

なるほど。いままで伺ったお話を俯瞰すると、すべてつながっているように感じられます。

そうかもしれませんね。当時「オタク」という言葉はまだ生まれていませんでしたが、オタクでいえば第一世代ですね。「ネクラ」ともいわれ、外で遊んだりするよりはこういった内向的な遊びを好むタイプでした。それでも小学生の頃は、草野球をやったりしたものでしたが……。

衝撃を受けたMacintoshの登場

高校時代、プログラミングについてはどのように情報収集しておられたのですか。

周囲に同じような趣味をもつ友達もあまりおらず、まだパソコン通信すらない時代ですから、情報源は雑誌だけですね。草の根BBS(小規模なパソコン通信)を始めたのも大学に入ってからです。高校卒業後は広島工業大学に進んだのですが、情報関連の学科がなかったため、経営工学科に入りました。でも、この学科にはミニコンのNIAC、学部にはHITACがあり、実習室にはNECのPC-9800シリーズが入り始めた時期でした。だから私は、キーパンチをやった最後の世代なんです。大学では、コンピューターやゲームのことを語り合う仲間も増えました。いまではもちろん違法で考えられないことですが、当時はゲームソフトをコピーするのが普通に行われていました。雑誌や本の記事を読んで、プロテクト外しの知恵くらべをしたりして、とても面白かったですね。

さすがに、それはもう時効でしょう(笑)。

それから大学時代には、ダイイチ(現在のエディオン)でアルバイトをしていました。シャープエンジニアリングの店頭応援員として、MZパソコンやパソコンテレビのX1を売っていたんです。

好きなことをやって、お金がもらえると。

まさにそうです。だから、お金がダイイチの中を回るんですよ。ダイイチでは中古品の下取りもやっていたのですが、いいものが出たら目をつけておいて、バイト代でそれを買うと(笑)。

なるほど。たしかにお店の中をお金が回っていますね(笑)。

そのバイト中のダイイチで、バットで頭を殴られるような衝撃を受けたことがありました。それは、忘れもしない84年のMacintoshの登場です。実はAppleⅡが出たとき、高価な上、解像度も低く、ディスプレイも小さいことで、私はバカにしていたんです。Macintoshが出たときも、最初は同じように思っていました。ところが、店頭でこのマシンに触ってみたところ、マニュアルなしで直感的に使い方がわかることに驚きました。いままで、BASICやCP/M、あるいはMS‐DOSでやってきたことはなんだったのかと思ったんですね。これが、現在に至る大きな出会いだったんです。

Macとの出会いの衝撃の後は?

これは一体全体どういう仕組みで出来ているのだろうと調べて、そこで出会ったのが『SMALLTALK-80-対話型プログラミング環境』(アデル・ゴールドバーグ著、相磯秀夫監訳)という本でした。どうも、このSmalltalkが元になっているぞと。でもこの本は高くて買えなかったので、大学生協の書店でずっと立ち読みしていました。Smalltalkは、パソコンの父といわれるアラン・ケイが中心となって開発したオブジェクト指向のプログラミング言語(プログラミング環境)で、これを見たスティーブ・ジョブズが、そのアイデアの一部を取り入れてMacintoshを開発したんです。

阿部さんがMacを手に入れたのは?

20歳くらいのときですね。当時、新品のMac Plusが64万8000円もして、学生のうちは手が出ないと思っていたのですが、中古のDynaMacが広島の無線屋でなぜか14万8000円で売られていたんです。親から借金をして手に入れたのですが、このときは本当にうれしかったですね。

Macの何が、それほど阿部さんを引きつけたのでしょうか。

「バットで殴られるような衝撃」といいましたが、そのとき「未来はこうなる」ことが一瞬で理解できました。まさに、次元の違うものを見てしまったんです。(つづく)

シャープのポケコン PC-1210改

本文でもふれた、阿部さんが初めて手に入れたコンピューター。上位機種のPC-1211と同じスペックにするため、雑誌『I/O』でメモリ増設の方法を学び、SRAMの型番を調べ、それを町のパーツセンターまで買いに行き、はんだ付けをしたそうだ。だから阿部さんは、機種名の後に「改」の文字を入れている。

心に響く人生の匠たち

「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。

奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。