戦国時代、織田信雄軍と伊賀の忍び衆が戦った「天正伊賀の乱」に材を取った和田竜の同名小説を映画化した『忍びの国』が公開された。
本作は、同じく和田原作の『のぼうの城』(12)同様、史実にフィクションを巧みに織り交ぜ、多勢に無勢からの大逆転を描いているのだが、『のぼうの城』に見られた“一寸の虫にも五分の魂”的な、登場人物たちの心意気から得られるカタルシスはなく、目的のない戦いの空しさや陰惨な印象が強く残る。それは、忍びという特殊な集団の持つ暗い背景によるものだろう。
そんな本作を見ながら、1960年代に市川雷蔵主演でシリーズ映画化された『忍びの者』を思い出した。織田信長、百地三太夫といった権力者に利用され、やがて捨てられる下忍たちの悲哀と反抗を描いていたが、良くも悪くも反権力という筋が一本通っていた。それ故、見応えがあったのだが、本作はそうした精神的な柱となるものが弱いと感じた。
それは、大野智演じる主人公・無門の性格付けの弱さや描き方の甘さが最たる原因だろう。だから、腕のいい一匹おおかみの忍びで、恐妻家で守銭奴の無門が、妻(石原さとみ)との豊かな暮らしよりも信雄軍と戦うことを選ぶという、心境の変化の理由がよく分からない。
むしろ、権力者を父に持った信雄(知念侑李)や下山平兵衛(鈴木亮平)、あるいは主君を裏切った武将たち(伊勢谷友介、マキタスポーツ)といった、無門と敵対する者たちの心の屈折の方がよく分かる。つまり、本作は人物描写のバランスの取り方を少々間違えているのだ。
忍者が繰り出す奇抜な忍術の数々は特撮向きで、映画誕生以来、さまざまな忍者たちがスクリーンで活躍してきた。言わば本作は、そうした日本映画の伝統にのっとって作られている。そして、アクションシーンにはCGの乱用も目に付くが、無門と平兵衛の一騎打ちなど、見るべきところも多く、今後の時代劇製作のさらなる可能性も感じさせる。だからこそ、もう少し人物描写を丁寧にしてほしかったと思うのである。(田中雄二)