店内にならぶ部品数は約2万点! 「タック電子販売」
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取材内容を伝えると、代表取締役の柴田さんが詳しく話してくださった。
1979(昭和54)年、当時ビルのオーナーだった京浜鳥獣貿易株式会社が地域活性のため、横浜になかった電気街を作ろうと立案。
「横浜に秋葉原をつくろう」 という呼びかけをもとに、秋葉原や名古屋、大阪などから電機店が集まった。
そして石川町に、発明王エジソンにちなんで「エジソンプラザ」と名づけられた電機街が誕生したのである。
ちなみに京浜鳥獣貿易株式会社は、日本で初めてのパンダ「ランラン」「カンカン」を呼び、当時の社長が全日本動物輸入業者協議会の会長も務めていた会社だが、不動産業での収益も大きかったようだ。(参考文献:平澤正夫『消えゆく野生と自然:動物たちに何が起きているか』(三一書房)1985)
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柴田さんによると、1980年代は1階と2階で最大10店舗ほどが営業していたが、移転や後継者がいないための閉店などによって次第に店舗数は減少。
1990年代に入ると、投稿にあった千石電商や共立電子なども、このような理由などから撤退し、13~14年前から現在の3店舗になっている。
その後、数回にわたってビルのオーナーが変わったなどの理由から、今は「エジソンプラザ」という名称も使っていないそうだ。
エジソンプラザ開業時から営業している「タック電子」の店内に並ぶ部品の数はおよそ20000点、取引先は400社以上だという。現在はインターネットでの注文も多いそうだが、取材中も常連客が来店したり電話が鳴ったりと、静かだったのは階段まで、店内は活気に溢れていた。
オーディオも充実している横浜のジャンク店「相模電子」
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続いて相模電子に向かうと、今度は電子部品とオーディオのジャングルが現れた。
相模電子の店主・林さんにもいろいろお話を聞くことができた。
「開業当時はいちばん狭い店だったんだけどね」という相模電子。今はいちばん広いそうだ。
エジソンプラザに開店する以前は、北海道から九州まで車でまわる電子部品の卸業を営んでいた林さんだが、エジソンプラザができるということを聞きつけ、開業と同時に、ここに店を構える ことにしたそうだ。
さらに林さんは、電機街の計画が出る以前のこともご存知だった。
ビルが完成した後、4階以上のマンション部分はすべて埋まったが、1~3階の貸事務所が埋まらなかった。
そこで何かアイデアはないかと考えていたところに、普通の貸事務所としてではなく、東京の秋葉原のような電機街を横浜にもつくるのはどうだろう、という案が出て「エジソンプラザ」の計画が生まれたというのである。
開業にあたっては、1階に2店舗、2階にマルゼンという電機店が最大規模の店舗として入るほか、約8店舗が3階に出店することになっていた。
ところが、マルゼンが2階ワンフロアでも狭いと出店を撤回したため、3階に出店予定だった店舗が2階に出店し、3階はそれまで通り貸事務所ということになったそうだ。
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相模電子でも取材中、電話や常連客が絶えない。林さんは「横浜で依然として、3軒だけれども頑張っているということを、応援してもらえてるんだろうね。ありがたいね」と言って笑う。
「社長、どうも」
「お、めずらしいね。最近来ないから死んだかと思ったよ」
「またまた、嫌なこというんだから。もう少し生かしておいてくださいよ」
「香典出さなきゃいかんかなって心配してたんだ」
「死んだら夢に出るからね」
「枕元に立って、この野郎全然まけなかったなって文句言うか。ははは」
といった、常連客との落語さながらの軽妙なやりとりは、聞いていて気持ちいいくらいだった。