拡大画像表示
拡大画像表示
京浜電気鉄道は、「京浜地主協会」を設立して、沿線開発を目指していた。
空気がきれいで魚介が美味しいと京浜地帯への移住を勧め、協会の仲介で移住すると運賃割引などの優待があるとしている。
生麦駅に隣接する約4万9600平方メートルは、1914(大正3)年5月から売り出された「初の分譲地」だった。
現在は民家やマンションが密集し往時の面影はないが、「生麦住宅」は、京浜電気鉄道が手がけた沿線開発事業の先駆けとして成功をおさめた。
同時期に、生麦の遠浅の海も埋立て事業が進められていた。
1807(明治3)年から大正年間にかけて、失敗や権利の譲渡を繰り返しながら、生麦は順次埋め立てられていった。
拡大画像表示
『なまむぎ今は昔(1993年/230クラブ新聞社刊)』によると、キリンビール工場のある埋立地のあたり一帯は、「戸沢シンケ」と呼ばれていたという。
「戸沢」は人名と思われるが不詳、「シンケ」は「新開地」のことであろうとされている。新たに埋め立てられたところという意味だ。
キリンビール前駅の誕生と終焉
拡大画像表示
拡大画像表示
生麦~新子安間のわずかな距離に「キリンビール前駅」が誕生したのは、増加していく乗客数によるラッシュアワーの混雑を解消するためだったのだろう。
「京浜電気鉄道沿革史(以下、沿革史)」によると、「キリンビール前駅」は、いわゆる駅である「停車場」ではなく、出発信号や標識信号などのない「停留所」と記されており簡易なものだったのだろうと想像できるが、それ以上の記載はない。
拡大画像表示
京浜電気鉄道に限らず、公共交通は年々需要を増し、特に1937(昭和12)年の日中戦争勃発後は軍事輸送の膨張と工場生産力の増大によって「交通地獄」という言葉も生まれるほど深刻な交通難となる。
会社や工場の出勤退社時間の調整、近距離通学の学生は徒歩通学の敢行などが行われたという。
拡大画像表示
「沿革史」には、ラッシュアワー緩和に向け当時つくられた標語が掲載されている。
「われ勝(がち)は速い電車を遅くする
入り口ふさげば一人で満員
中程につめてひろがる出入り口」(沿革史より )
現在にも通じる交通標語である。
発展していく京浜地帯を走る鉄道の駅として営業した「キリンビール前駅」も、国中が戦争の色を濃くしていく中、「ビール」という名も除いて「キリン駅」と改称。
やがて戦況の悪化にともない営業そのものを休止し、戦時体制の企業整理統合の政策にのっとって京浜電気鉄道も1942(昭和18)年東京急行電鉄に合併されるという背景もあった。いわゆる大東急である。
戦後(1948<昭和23>年)、大東急は解体され、「キリン駅」も京急の駅となるが営業休止のまま、翌年正式に廃止駅とされ、詳細な資料は残っていない。
拡大画像表示
拡大画像表示
拡大画像表示
拡大画像表示
取材を終えて
拡大画像表示
戦中戦後にかけて改称、廃止されたこともあり、詳細は残っていない「キリン駅」。
現在の相鉄線「横浜駅~平沼橋駅」間より生麦駅との駅間が200メートル近く短い距離であったことを考えると、廃止はやむをえなかったかもしれない。
せめて、記録と記憶にはとどめておきたい駅のひとつである。
※本記事は2013年12月の「はまれぽ」記事を再掲載したものです。
横浜のディープな街ネタを毎日更新中!
ユーザーから投稿された「キニナル」情報を検証すべく「はまれぽ」[ https://hamarepo.com/index.php ] が体を張って調査。
「横浜最強の激辛チャレンジメニューに挑戦!」「横浜で一番美味しい道草はどこの道草!?」など、横浜のマニアックな情報をお届けします!