――「Now I Here Eternity」というライブのタイトルですが、『ここではないどこか』も本編最後に演奏されたじゃないですか。「今、ここ」と「ここではないどこか」にどういった関連や違いがあるのかなと。
MORRIE:あの曲を作った頃、1990年ですから24年前、イラクがクウェートを侵攻した頃ですね。
『ここではないどこか』のフレーズ自体ははボードレールからです。
ボードレールの詩も、内容的には「戻ってくるのは結局ここしか無い」というもので。
あの当時の僕はひとことでいうとニヒリスティックかつアイロニカルでしたが、僕にとってはアイロニーなんですけど、周りにはあまりアイロニーとして機能してなかったように思います。
「ここではないどこか」を目指してるのにもかかわらず、結局ここしかないっていう、もっと言うならば、この「私」しか無い。そういう意味では、「今、ここ」も「ここではないどこか」もどちらも同じことなんだけどね。
――はい。
MORRIE:どこまでいっても自分でしかない、その自分とはなにか、という捉え方がボードレールと僕とでは全く違うとは思うけど、簡単に言うと自分でしかあり得ないこの自分…、そこに帰ってくるんです。
自分が自分でなくなったひとっていうのはいないでしょ?
だから荘子の話ですが…、蝶になる夢をみて目が覚めて、これは蝶が見ている夢かもしれない?と。
けれど、蝶であろうが人間であろうが何になろうが、自分が自分であることからはどうやっても逃れられない。「私の牢獄」というか。それは奇跡であり宿命ではあるんですが、そこから逃れたいという欲望を「ここではないどこか」というフレーズで表現しているんですね。
その不可能が約束されている願望…、それが僕には昔からあって。
だから自分が自分であるかぎり、音楽に陶酔して我を忘れたいんでしょうね。
――なるほど。
MORRIE:要するに父親と母親の精子と卵子が結合して、物理的にね。で、細胞分裂が起こって肉塊が生成し、その肉塊に…、言葉は難しいんですけど「宿る」って言ってもいいけどね、「この自分」が「宿って」いるわけじゃないですか。
「それ」の始まりは誰も覚えてないですよね?
自分が自分であるところの自分、そこから全てが、開けていくっていうか、見えてるっていうかさ、感じてる…まぁ何でもいいんですけど(笑)。自分だけの世界って言うとすごいまた語弊があるんですが、本質的に伝達不可能なこの「私」の世界…というとそれがまた伝わってしまって困るんですけど。
これに深く感じ入ってもらえると生きる世界が変わりますよ。それが「Now I Here Eternity」。
――永遠にそうであると。
MORRIE:うん…そうやね、「永遠」という言葉が一番しっくりくるね。永遠、無限、そういう人類が持ってる言葉は何かしらの知恵の集積で。
人類が持っている言葉は、もちろん時代や地域によって意味内容は変わってくるけど、言葉自体は存在するっていう、ね。
「永遠とは何か」ということを考えていく感じていく中に「永遠」があるっていうかさ。
僕が関心あるのはそういうとこですね。「Now I Here Eternity」って、こういうこと。50周年ということででベタに、自分の生きる基本姿勢をタイトルにした(笑)。