長野県の自然豊かな高原を舞台に、代々つつましい生活を続けてきた住民の、レジャー施設の開発をめぐる生活の変化を描いた『悪は存在しない』が、4月26日から全国公開される。本作で第80回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門で銀獅子賞に輝いた濱口竜介監督に話を聞いた。
-今回は、ドキュメンタリーと劇映画との境界を描いた映画という印象を受けました。
もともとカメラで撮る以上、現実を記録するということではあるので、劇映画を撮る時もドキュメンタリーを撮るように撮ろうとは常々思っています。その上で、今回は石橋英子さんのライブパフォーマンス用の映像を作ることとなり、彼女の音楽と調和するモチーフを見つけるために石橋さんが使われているスタジオの周辺のリサーチをするところから始めました。すると、例えばこういう視点から、こういうショットが撮れるみたいなビジュアル面の準備に時間をかけられました。自然の映像と人間がどう絡んでいくかという問題があったのですが、映画の中での説明会の場面と似たようなことが実際にあったことを聞いた時に、方向性が見えてきました。人間が自然を食い物にするようなずさんな計画は、いろんなところで見聞きしています。自然の問題に限らず、自分たちの業界の働き方も含めて、こういうことは本当にあると感じて、自分のこととして描けるような気がしました。そういう現実を取り入れながらやったという点では、ドキュメンタリー的なフィクションにはなっていると思います。
-「悪は存在しない」というタイトルは、ある意味、反意的とも取れるようなところがあって、そこには自然と人間との関係も入っていると思いますが、このタイトルに込めた意味や思いについて聞かせてください。
僕自身は、首都圏で暮らしているので、普段はあまり自然との接点はないですが、自然の風景の中でリサーチをしているときに、こういうフレーズが自然に思い浮かびました。自然災害で、すごく暴力的、破壊的なことが起きたりもしますけど、それで被害を受けたからといって、自然に悪意は見いださないですよね。そういう点では、自然のサイクルの中に悪というものは存在しないと思いました。それがそのままプロジェクトのタイトルになったんですけど、物語の内容が「この世に悪は存在しない」と主張しているかというと、必ずしもそうではありません。このタイトルを付けたことによって、かえって内容との間に意義深い緊張関係が生まれたので、それを楽しんでいただきたいと思います。
-今回のように俳優としてのイメージがない人を使う場合と、『ドライブ・マイ・カー』(21)の西島秀俊さんのような有名な俳優を使う場合とのすみ分けというか、俳優に関する監督のイメージというのはどのようなものなのでしょうか。
キャスティングは、ケース・バイ・ケースですが、そのキャラクターに最も説得力を与えてくれる人を選びます。究極的に言えば、俳優か俳優ではないかというのは、あまり関係がないと思っています。ただ、俳優でないとそれは難しいという場合もたくさんあります。細やかに感情の方向転換をしたり、表現していかなければならないような役となると、それはやっぱり俳優でないと難しいだろうなとは思います。今回の大美賀(均)さんは演技経験はほぼない人です。なので、ご覧いただいたら分かるように、それほどせりふがあるわけではないし、喜怒哀楽を表現することもないので、彼にできることは無理にやらないというのは原則でした。その上で彼の見た目とか、ありようとかを、映画の物語の中にうまく組み込むことができれば、素晴らしい形で存在してくれるだろうと思いましたし、実際にそうなったと思います。
-『ドライブ・マイ・カー』も、『偶然と想像』(21)の「魔法(よりもっと不確か)」もそうでしたが、今回も車の中での会話のシーンが多かったですね。何かこだわりがあるのでしょうか。
基本的には、映画を作り始めたとき、会話の場面を描くことからしか発想できなかったんです。人の動きを演出するより、会話によって人間関係が変わって発展させるのがどちらかといえば得意でした。でも会話の場面は、例えば喫茶店でずっとしゃべっていたら映画としては面白くないので、会話の場面を乗り物の中でやることはずっとやっています。最近になって車が出てくるのは、ある程度、予算が掛けられるようになったから。若い頃は電車でゲリラ撮影もしましたが、ある程度スタッフがそろって、安全を確保することができるような体制が組めるようになってくると、車での撮影も可能になるし、その車の中での人間関係というか、公共交通機関で話すことと、プライベートの空間としての車で話すことは結構違ってきます。その空間にも影響されて、今までよりもパーソナルな会話が、乗り物の中でやりやすくなったというのはあると思います。
-ラストシーンはいろいろな解釈ができると思いますが、ああいう形にしたのは、観客に委ねるような意図があったのでしょうか。
ある程度登場人物をちゃんと作っていくと、この映画に限らず、その人物の人生の途中で終わらざるを得ません。ある問題が一瞬は解決したとしても、人生は続いていくものですよね。だから、観客が「この続きがあるんだから、もっと見せて」と思うぐらいのものが望ましいと思っています。登場人物の人生や彼らの行動原理はちゃんと作ったつもりなので、途中で終わったとしても、観客は想像してくれるのではないかという期待も込めて、あの終わり方にしています。途中で終わるというのは、基本的には全然悪いことではないと思っています。むしろ、途中で終わったり、どこか不条理なものを残したりというのが、最近の映画にはなさ過ぎるのではないかと。自分が映画を見始めた頃は、そんな映画が多かった印象がありますし、本来もっとそういうふうに終わる映画を見たいと自分自身が思っています。それで特に今回は、思い切ってあるポイントで終わってみました。それで観客がどういうふうに反応するんだろうということも楽しみにはしています。
-本作は新しいタイプの映画でしたが、意識したり、参考にした映画はありましたか。
たくさんあります。自分1人で何かを思いつくということはないです。基本的には、今まで見てきた映画や現実から、少しずつ要素を頂きながら作っているのが実際です。今回はビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』(75)から直接的な影響を受けています。
-最後に、観客に向けて一言お願いします。
今回は、石橋英子さんの音楽に導かれて作って、映像も音響も、スタッフも映っているキャストも本当に素晴らしい仕事をしているので、エンターテインメントを楽しむつもりで、ぜひ見に来てださい。この映画に限らず、常に観客には委ねられているとは思っていますが、今回は極上のエンターテインメントを作ったつもりです。ぜひ映画館で体感していただけるとありがたいなと思います。特に自分自身が楽しい、面白いと思って作っていますし、ハラハラドキドキとできる映画だと思っているので、ぜひ、そういうふうに見ていただきたいなと思います。
(取材・文/田中雄二)