ヴィーガントとの合併によって「スプリングバレー・ブルワリー」の生産量が増えると、コープランドは、今度は販売に力を注ぎ、横浜から東京、神戸、長崎へと広げ、さらには上海やサイゴン(現在のホーチミン)など海外にも輸出するようになる。

しかしながら1880(明治13)年に商事組合は解散、そして1884(明治17)年には経営が破綻し、「スプリングバレー・ブルワリー」は、売却されることに。

そこで、タルボット(W・H・Talbot)やアボット(E・Abbott)といった居留外国人33人と、幕末に大きな影響力を及ぼしたT・B・グラバーの働きかけによって参加した三菱財閥2代目総帥の岩崎弥之助が出資し、翌年の1885(明治18)年7月、「スプリングバレー・ブルワリー」と同じ敷地に、資本金5万香港ドルで、上の写真絵葉書でも触れた「ジャパン・ブルワリー」が設立されたのである。

写真絵葉書「横浜北方の眺め」(提供:yokohama postcard club)
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向こうに醸造所が見える写真絵葉書「横浜北方の眺め」。

 

それとほぼ同じアングルの現在。緩やかな坂は「ビヤ坂」と呼ばれ往時を偲ばせる。

 
 

坂をくだって北方小学校のすぐ南側にある「キリン園公園」にはとても大きな「ビール産業発祥」の碑が立っている。

ビヤ坂側には「麒麟園」と書かれた古い門の跡。向かい側の路側帯もやや広い。

翌1886(明治19)年に、本格的なドイツ式醸造法の実現に向けて製氷機を導入すると、輸入ビールとの競合が可能になると考えた渋沢栄一など日本人株主が多数参加し、会社の規模は拡大していく。

ほかにも必要な最新醸造機械や蒸気設備、さらに熟練したドイツ人技師を招き、第1回の仕込みがおこなわれたのは1888(明治21)年2月23日。そしておよそ2ヶ月後の5月、「ジャパン・ブリュワリー」が発売した商品が「キリンビール」である。

キリンビール初代ラベル
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翌1889(明治22)年にはグラバーの提案で現在に通じるラベルに変更された
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キリンビールのラベルに描かれた麒麟の鬣(たてがみ)に「キ」「リ」「ン」の文字が隠れているという話は有名だが、この麒麟は、グラバー邸に置かれていた狛犬の石像がモデルであるとか、麒麟の髭がグラバーの髭が元になっている、また麒麟は頭が龍で体が馬、つまり親交があった坂本龍馬を表しているという説など、夢が膨らむ伝説がたくさんある。