1945(昭和20)年には贅沢品として商品名もなく「麦酒」という文字だけになったラベルなど、興味深い展示がいくつもあったが、ビール発祥の時代から遠ざかってしまうので話を戻すと、キリンビール発売から13年後の1901(明治34)年に麦酒税法が施行されたことで、中小の醸造業者は撤退を余儀なくされ、ビール業界に再編の動きが起こる。

1903(明治36)年には札幌麦酒会社(後述)の関東に進出を機に競争が激化し、札幌麦酒、日本麦酒(後述)、大阪麦酒(後述)の大手3社合同による「大日本麦酒株式会社」が設立。

ジャパン・ブルワリーも合同の提案を受けたが、当時のチェアマン兼取締役であったフランク・スコット・ジェームズは、外国法人のジャパン・ブルワリーが、日本国内で展開するために国内一手販売契約を結んでいた明治屋の社長・米井源次郎と協議した結果、大手合同には参加しないことに。

代わりに、三菱合資会社社長・岩崎久弥の支援を得て、ジャパン・ブルワリーを操業状態のまま引き継ぐかたちで、1907(明治40)年に岩崎家と三菱合資会社、明治屋らによる新会社が設立された。これが「麒麟麦酒株式会社」である。

麒麟麦酒株式会社が創設された1907(明治40)年ごろの横浜山手工場
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その後、1918(大正7)年4月には神崎工場(のちのキリンビール尼崎工場)、1923(大正12)年5月には仙台工場(現在のキリンビール仙台工場)が操業を開始するなど、本格的なドイツ式ビールであるキリンビールは人気を集めていたが、1923年9月の関東大震災により、横浜山手の工場は倒壊してしまう。

そこで、すでに手狭になっていた山手を離れ、より広い敷地に工場を再建することなった。東京へ移転する案も出たが、発祥の地である横浜にということで、物流の利便性の高い京浜間に位置し、広大な埋立地があいていた生麦に決定し、1925(大正14)年に現在地に移転した。

横浜新工場(提供:キリンビール)
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提供:キリンビール
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そして翌1926(大正15、昭和元)年、生麦に横浜新工場が完成。落成披露式典には巨大なビール瓶と泡があふれるビアグラスの模型が飾られた。

三田さんと井上さんは、やはりというか、よく見学者から「生麦だけに?」と質問されると笑っていたが、キリンビール横浜工場は狙って生麦ではなく、自然の脅威と近代化、そして横浜発祥の矜持(きょうじ)とが重なりあって生麦にあるのである。

そして、横浜におけるビール発祥の歴史は、1869(明治2)年、つまり明治時代が始まったのとほぼ同時に、居留外国人の手によって山手46番と山手123番で醸造が始まり、1870(明治3)年に産業として動きだしたということになる。

 

工場に併設された「パブブルワリー スプリングバレー」の入口横には山手工場跡から掘り出された煉瓦が置かれている。