前田敦子は、凡庸であることを輝かせる力がある。
受動から、能動へ。
そのように向かうべき「場所」だったからこそ、『毒島』は前田の代表作たりえている。
本作の重要な点は、ドラマが彼女のモノローグによって進行していくことである。
前田は特権的な声質の持ち主だが、ここまで、真っ当にモノローグの効用に貢献したことはなかったのではないか。
モノローグとは、言うまでもなく「こころの声」だが、それがあって初めて、毒島ゆり子は共感を呼ぶキャラクターたりえている。
一緒にクロワッサンを食べるとき、相手の男を、やや上から目線で「品定め」する毒島。
そのモノローグには、自身を安全圏内に置こうとする「おそれ」があり、そのための「ルール」があり、なにかに対して失望しないための「あきらめ」がある。
この「おそれ」と「ルール」と「あきらめ」とを同時に存在させ、それを「ときめき」でシュガーコーティングして差し出す前田敦子のモノローグがあったからこそ、このドラマは最後の最後まで付き合うべき価値のある作品になった。
モノローグは、道路標識であった。おそらく、モノローグに、前田の演技そのものも助けられていた。自分で自分を助ける。言ってみれば「自助」である。
9話のモノローグは、あまり口を開かないまま発せられており、その「道しるべ」が小さくなったようなありようが、毒島の精神状態をあらわしていた。
モノローグが一定ではなく、伸縮している。
とりわけ、小津とすれ違いながらも、彼が目をあわせないくだりで発せられる「小津さん……」は、もはやそれが「こころの声」なのか、だだ漏れしている「現実の声」なのかわからないほど、境界線の危ういものであった。
毒島のモノローグはある意味、凡庸であり、毒島自身も凡庸なキャラクターである。
だが、凡庸だからこそ、共感を呼ぶことができる。
前田のモノローグにはいま、凡庸であることを輝かせる力がある。
いよいよ、最終回である。