『毒島ゆり子のせきらら日記』の前田敦子には、あのとき書いたことがもはや通用しない。そのことに爽やかな敗北感がある。
いまの彼女には、自身の努力を、正しく導く力がある。
「わかりやすさ」や「巧妙さ」に傾斜はしていないが、「届ける」ことに、こころも、からだも、くだいている。そのためなら、「やりすぎる」なんてことは、どこにもない。そんな意思がある。「こう見てほしい」とは考えないが、「どう見られてもかまわない」というタフネスが、明るくひなたぼっこしている。相変わらず「物欲しげ」ではないが、けもの道を切り開いていった結果、「なにかを得る」ことに少しも躊躇がない。
彼女はかつて、わたしの問いにこう答えた。
「慣れないで、上手くなりたい」
演技することにも、現場にいることにも、馴れ合わないで、上手くなりたい、と前田敦子は口にした。
上手くなる、ということは、ときに、「こなれる」ことに陥るが、そうではないかたちで向上したい、という意味だと、わたしは受けとっている。
いま、まさしく、彼女は、そんなふうにして、カメラの前に立っている。
2011年という年が明けたころ、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』という映画のクランクインの現場にいたわたしは、前田敦子の背後に「映画的後光」が射しているいるさまを目撃し、薬師丸ひろ子(奇しくも前田とは二度共演している)の再来を確信した。
以来、前田敦子の女優としての価値をさまざまなところで書き、また話してもきたが、ほとんど賛同は得られなかった。それどころか、巷では「前田は演技が下手」が定評になっていることも知った。
この試論では、なぜ、そのようなことが語られているのかについても思考するつもりだったが、ドラマの純度に瞳を奪われ、そこはおそろかになってしまった。おそらく、これまでの前田敦子の演技には「共感度」が欠けていた(4年前、記したように、それこそが非凡だったわけだが)のだろう。
だが、そんなことはもうどうでもいい。『毒島ゆり子のせきらら日記』には、かつてないほど「共感度」の高い芝居があふれている。
前田敦子には、前田敦子にしか、輝かせることができないものがある。確かにある。「それ」が、ここまで明瞭に、全方向から、ひとつの作品のなかで立ち現れたことはなかった。
もし「あなたは、なにができるの?」と訊かれたら、彼女は「わたしはこれができます」と、『毒島ゆり子のせきらら日記』を見せればいい。
前田敦子は、前田敦子を卒業したのだと思う。
「これまで」は、もう必要ない。「これから」があるだけだ。
これから、何度でも、「初めての前田敦子」が、わたしたちの前に出現するだろう。
(アルバム『Selfish(TYPE-C)』を聴きながら)
『毒島ゆり子のせきらら日記』Blu-ray&DVD-BOX 発売
発売日:10月26日(水)
【特典映像】
・クランクアップ集
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・黒猫チェルシー with チャラン・ポ・ランタン もも「抱きしめさせて~THE HEAD WINDS ver.~」スペシャル ミュージックビデオ
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◆本編一部をディレクターズカット版にて収録。
※収録内容は変更となる場合がございます。