「Jリーグは世界でも珍しくオープンなリーグなので、優勝を目指したい」

欧州から、南米から、日本へやってきた新監督は、常套句のようにこのセリフを口にする。確かにJリーグは過去18年間で7チームのチャンピオンを生んできた。ヨーロッパの20年間の王者を見ると、イングランド・プレミアリーグが4チーム、イタリア・セリエAとスペインのリーガ・エスパニョーラが5チーム、ドイツのブンデス・リーガが6チームである。だが、しかし、誰がJ1昇格を果たしたばかりの柏レイソルが初優勝を成し遂げるなんて、誰が予想しえただろうか。もっと言えば、2009年11月28日、J2降格の憂き目に遭ったチームが2年後にJ1制覇を果たすと予想した者は、熱狂的なレイソルサポーターを除いて皆無だったことだろう。

まさに夢物語である。柏を夢の頂へ導いたネルシーニョ監督は、34節の浦和レッズとの試合後、必然の結果であることを強調した。

   

 















12月4日付日刊スポーツ東京本社版1~3面

「日々のトレーニングの中で、それぞれのポジションの役割を全員がこなした。どの選手でもそのポジションに入ったら役割をひとつ果たすことから入った。そこから選手たちもやり方を理解して、自分の判断でプレーできるようになり、味方を助ける、ふたりのコンビネーションで役割を入れ替えるということがスムーズにできるようになっていった。結果が出て自信を付けながら、素晴らしいゲームができるようになったんだ」

キャプテン・大谷秀和は開幕戦の勝利が大きかったと語った。

「開幕に良いスタートを切れたこと大きいです。J2から上がった中で、J1のチームを相手にしっかり自分たちのサッカーが通用して勝てるという意味でも、開幕戦の勝利は大きかったです」

キャプテンはさらに続ける。

「上位にいたことで、監督も『優勝』という言葉を口に出していました。監督の言葉を聞いて選手も優勝を意識し、戦ってきたことがよかったと思います。J1に昇格してすぐに優勝するということを口にするのを躊躇するようでは、最後の最後で自分たちに良い結果は来ないと思っていました」

柏の快挙達成の理由は、いくつもある。

まず、2段階の守備ブロックを徹底した。「ボールを奪われたらすぐに相手にプレッシャーをかける」という基本中の基本を誰もサボることなく、実践した。

見事なスタートダッシュの原動力となった北嶋秀朗の存在も忘れてはならない。15年目のベテランFWは開幕5試合で4ゴールを量産し、「俺たちはJ1でもやれるんだ」と強烈に引っ張った。

ベテランに引っ張られる形でFW・田中順也、右サイドバック・酒井宏樹らU-22日本代表戦士たちが長足の進歩を見せ、チームの核となっていた。前節、C大阪戦で引き分けた試合後、ネルシーニョ監督が「最終節には酒井が戻ってくる」と語るほどの信頼感を勝ち得ていた。

そして、何よりもレアンドロ・ドミンゲスとジョルジ・ワグネル、ふたりのブラジル人の活躍が大きい。レアンドロは得点ランキング3位タイとなる15ゴール、ワグネルは最終節でチームを勇気付ける値千金の先制弾を含め11ゴールを挙げた。かつて某クラブの監督に「Jリーグの場合、外国人選手が当たれば上位にはいける」と聞いたが、助っ人の当たり外れはJリーグの順位を大きく左右する。

ただ、助っ人が大当たりなら優勝できるなんて、いくらJリーグがオープンなリーグであってもありえない。ベテランの活躍、若手の台頭、助っ人の適応、そして指揮官の手腕、どのピースが欠けても、柏の奇跡の物語は完結しなかったのだ。この奇跡の物語のハッピーエンドにも、61歳のブラジル指揮官は「魔法なんてない」と言う。

1990年にコリンチャンスでブラジル全国選手権の頂へ、1995年ヴェルディ川崎でJリーグ二コスシリーズ制覇、2001年にはサンパウロをリベルタド―レスカップ優勝へと導いたネルシーニョは、突然チームが強くなる魔法なんてないと言う。

「チームが強くなるマジックはない。日々のトレーニングの中でしか、チームは強くならない」

2011年12月3日、埼玉スタジアムでJリーグ8チーム目となるチャンピオンが生まれた。 

あおやま・おりま 1994年の中部支局入りから、ぴあひと筋の編集人生。その大半はスポーツを担当する。元旦のサッカー天皇杯決勝から大晦日の格闘技まで、「365日いつ何時いかなる現場へも行く」が信条だったが、ここ最近は「現場はぼちぼち」。趣味は読書とスーパー銭湯通いと深酒。映画のマイベストはスカーフェイス、小説のマイベストはプリズンホテルと嗜好はかなり偏っている。