(左から)近浦啓監督、藤竜也 (C)エンタメOVO

 幼い頃に自分と母を捨てた父・陽二が警察に捕まった。連絡を受けた卓(森山未來)が、妻の夕希(真木よう子)と共に久々に九州の父のもと訪ねると、父は認知症で別人のようになり、父が再婚した義母(原日出子)は行方不明になっていた。卓は、父と義母の生活を調べ始めるが…。近浦啓監督のヒューマンサスペンス『大いなる不在』が7月12日から全国公開される。近浦監督と認知症となる父・陽二を演じた藤竜也に話を聞いた。


-まず監督に伺いたいのですが、今回の藤さんのキャスティングはどのような経緯で決まったのでしょうか。


近浦 キャスティングをするという感覚はあまりなかったです。僕が映画を作っていて藤竜也さんが役者をやっているのであれば自然と物語を作るみたいな感じです。藤さんに合わせて物語を作るという感覚は以前から変わっていないです。それはもう、自分の中で当然のことだと思ってしまっています。


-認知症になってしまった老人を演じる気持ちというのはどんな感じなのでしょうか。


藤 私自身、毎日自分の老いと相対しているわけですから、非常に分かりやすい。認知症に関しては、以前、田中光敏さんの『サクラサク』(14)という映画で、そういう役をやりまして、いろいろと調査をしました。それがベースにあったので、今回認知症について改めて勉強したりはしませんでした。


-自分もこんなふうになってしまうかもしれないと考えたりもしますか。


藤 それはもう仕方がないと思います。それも含めて、この映画はそういう人間に対して「そうなんだよなあ」と共感している感じがしました。私はこの映画を見終わった時、何であんな醜態をさらさなきゃならないのかと否定するよりも、「人間ってそうなんだよな、別にいいじゃん」みたいな感じになったんです。死も含めて、老いていろんなことを引き受けなければならないわけだから、あまりそのことを否定的に考えても仕方がない。人によっては認知症が60代で出てしまったりもするわけでね。それはもう当たり外れみたいなもので、どうしようもないんですよ。だからって人間は嫌になりませんよね。


-この映画は、監督自身の実体験、お父さんの話が根底にあったのですか。


近浦 映画は完全なフィクションですが、着想のきっかけは、ちょうど新型コロナウイルスがまん延した2020年の4月に、僕の父親が認知症になったことです。その時すでに、2作目に撮ろうとしていた脚本も完成していたのですが、あれほどの社会の変容を経験しましたから、その物語にあまり臨場感が持てなくなりました。それで、今の自分、あるいは社会に共鳴できるような、何か新しい物語を書きたいと思いました。最初に浮かんだのが「不在」というキーワードで、そこから物語を紡いでいきました。陽二というキャラクターについて僕の父親から拝借している設定は、X線工学という物理学の一分野を専攻している大学の教授であるところで、それはそのまま生かしました。


-藤さんは、今回近浦監督と3度目のコンビを組んだわけですが、藤さんにとって近浦監督はどういう存在ですか。


藤 信頼感というよりも、私にとってはちょっとスーパーマン的な感じがします。というのも、私は古い映画会社(日活)で俳優になって、10年そこにいて、撮影所が閉鎖になって、それから今までやってきているわけだけど、インデペンデント映画は、自分で全部支度をして、作る状況を整えて、演出をして、なおかつ海外にまで意欲的に紹介して、世界のさまざまな国で映画が楽しめる場所を作って…。私から見ればちょっと大谷(翔平)っぽいなと。そのぐらい時代が変わったのかなと。本当に素晴らしい時代に、私はまだ俳優をやれていてハッピーです。


-ギクシャクした関係の息子役の森山未來さんの印象はいかがでしたか。


藤 ちょっとニュアンスのある表現を巧みにされるので、森山さんのあの空気感は分かるなという感じです。本当に迷惑なことになっちゃって、25年も音信不通だったおやじと仕方なく接触して、だんだんと引きずり込まれて、大変だろうなという。父親に対する戸惑いと屈折感について非常に陰影のあるお芝居をされたので、とても楽しかったです。素晴らしかったです。陽二さんといい対照になってよかったんじゃないかと思います。

-監督、原日出子さんが演じる陽二の奥さんが行方不明になるところは、ちょっとミステリーぽいものを意識しましたか。


近浦 僕にとっての映画は、第一義としてエンターテインメントです。90分~120分の良質なエンターテインメントを作りたいという思いで、映画制作に取り組んでいます。ですので、この映画についても、最後まで何らかの気持ちを抱きながら楽しんでもらえるフックが必要でした。そのうちの一つがミステリーだったのかもしれません。事物の見せ方に関しては若干ホラー映画的な試みもしています。そういったいろんなことをミックスしながら、2時間ちょっとの旅を、観客の皆さまには寝ずに、あるいは劇場から出ていかずに一緒に過ごしてもらいたいなと。最後にたどり着いたら何かを持って帰ってもらえるんじゃないかなというふうに思っていますので。ミステリーの部分に関しては、何度か見ればおおよそのことは分かると思います。いろんなヒントをちりばめています。


-藤さんに、以前インタビーした時に「台本が覚えられるうちは俳優を続ける」とおっしゃっていました。今回も長ぜりふがありましたが、日頃から何か訓練はしているのですか。


藤 訓練はしません。もう何か覚えるんでしょうね。覚えるというと一生懸命何回も何回もという感じなんだけど、あまりそういう意識がないんです。何となくせりふが入っちゃうんですかね。ちょっと説明し難いんだけど、自分でしゃべっている気は全然していないんです。陽二さんがしゃべっているという感じなんです。だからここで何かをやろうとか、何も考えていないです。陽二さんに全部任せているというか、自分の中に陽二さんが入っている感じです。それが自然に出ていく。私はカチンコになるとすごく自由になれる感じがします。若い時はひどい有りさまでしたけど、だんだんと、訓練じゃないですけど、職人みたいなものですね。技というか、手になじんでくるって言いますか。


-最後に、観客に向けて一言お願いします。


近浦 まずは難しいことは考えずに気楽に楽しんでもらいたいなと思います。きっと興味深く見られると思います。あとは、やはりこの映画で一番見てもらいたいのは役者の演技です。本当にこれだけの役者が日本にいるんだと。また、昨年サン・セバスチャン国際映画祭で藤さんがシルバー・シェル賞(最優秀俳優賞)を受賞しました。それがどんなものなのかというのを見ていただきたいと思います。


藤 最初に台本を読んだ時に、老境の人間を非常によく描いている。むしろ冷酷に描いていると思いました。でもこれが観客とどうインタアクション(交流)するのか想像ができませんでした。「これで人は感動するの? 面白がるの?」という感じでした。失礼だけど、私はそう思いました。ただ、とてもやりがいがある役だとは思いましたから、監督にも「私はこの映画がどういうものになるのか見当はつきませんが、このおやじだけはしっかりやらせていただきます」と打ち合わせの時に申し上げたんです。ところが、初めて試写を見終わった後、何かグラグラと揺すられた感じがしました。ちょっとドキドキするけど、こいつは一体なんだろうと。それが何かということは具体的には説明できないのですが、この感じを観客の皆さんにも味わっていただきたい。この作品と観客がどうインタアクションするのかにすごく興味があります。それが楽しみです。


(取材・文・写真/田中雄二)