スマホを見ながら突然車に轢かれても、自分が死んだことに気づかないんじゃない?

 

――今作を聴かせていただいた印象なんですけど、『ワンピース心中』『さくらメメント』とタイトルの随所に死の匂いがある。特に『自撮(じさつ)入門』『戦争を知りたい子供たち』…、自殺にしても戦争にしても、絶対に死とは切り離せないものじゃないですか。

インターネットや仮想現実が身近になりすぎていて、死と生の価値や基準の差が曖昧になってきたのかな。たとえば手塚治虫が亡くなっても「手塚治虫bot」が喋っている限り、生きてるように感じてしまう…じゃないですけど、その人の発言や思考がデータベースとして残ってしまうことによって、死生観が曖昧になっていくような。

単純に街を歩いていても、みんなずっとスマホを見ながら歩いてるじゃないですか。そうやってながら歩きしていたら、突然車に轢かれて死んだとしても、もしかしたら自分が死んだことに気づかないんじゃないかな? 肉体は死んでるんだけど気付かずにずっとスマホを見続けているような。

リアリティが希薄だから、常に死の扉が開けているというか、異次元の蓋が開けているような感じ。
今の日本の若者は生きてるのか死んでるのかいまいち実感が持てない。だけど、毎日を少しだけ希望をもっていきたいという生き方にシフトしているのかな。これは悪い意味ではなく。
「すごく金稼ぎたい」とか、「すごくモテたい」とかではなく、「ちょっと楽しく」生きていたいと。
 

既読スルーが何より恐ろしい、いまの若者

――「ちょっと楽しく」の具体例としては自撮りに「イイね」がつく、みたいな。

そうそう、だから今回のアルバムジャケットに使わせてもらっている会田誠さんの「群娘図'97」が発表された時、僕は中3だったんですけど……夏に「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に 」を上映されて、その冬に庵野秀明さんが『ラブ&ポップ(※援助交際をテーマにした村上龍の同名小説の映画化)』を発表する……そんな時代なんですけど。

この頃のコギャルたちは、例えば援助交際をすることによって、自分の若さや少女性をモノやお金に置き換えようとしたんですよね。
自分の価値を「私は3万円だ」「5万円だ」と換算して。それによって手にしたブランド物で武装することによって自分の価値を誇示していたけど、今の自撮りをするような子たちにとっての価値基準ってお金でもなくて「レス」なんですよね。

レスをもらうことによって「自分はここにいる」と初めて感じられる。既読スルーが何より恐ろしい。
普段は自分の存在を幽霊のように感じているけど、レスをもらうことで「私はここにいますよ」宣言ができる。だから今の子たちってアイデンティティは希薄なんですよ。ただ揺蕩っているというか。

「群娘図’97」が17年前に描かれて、この年に生まれた子たちがJKになっているというのはおもしろいサイクルだなあと。