――2バンドで撮影した写真もインパクトありますね。
みんな好きな格好をしているだけなのに結果的に統一感が生まれてきてるというか。桜井青さんとも対談をさせていただいたんですけど、すごく思ったのが、自分が綺麗だと思うもの、美しいと思うものに対してのこだわりがものすごくあって。逆に言うと、何かのスタイルには中々はまらない美意識を持っている。結果的にはみ出ちゃう。そういう2バンドなんじゃないかなあって気はしますね。
僕はcali≠gariさんのことはムーンライダーズの鈴木慶一さんがプロデュースした「8」で知りました。
ヴィジュアル系に興味はなかったんですけど、cali≠gariさんは面白いバンドだなってずっと思っていて。この日も面白い異化作用があるんじゃないかと思っています。
――アーバンギャルドは近年CDはずっとメジャー流通ですし、「MUSIC FAIR」のような地上波の音楽番組に出演されたり、昨年はフランスの日本カルチャーの祭典「JAPAN EXPO」にも出ています。「サブカル」と呼ばれていますが、スタンスはメジャー志向というと語弊があるかもしれませんが、間口が広いですよね。
結果的に今はサブカルがメインになっちゃってるところもあるだろうし、メインカルチャーが無いってこともあるだろうし、こういうことを言うと不遜な言い方になるかもしれないけど。自分がやりたかったことと世の中の波長があってきただけという気もします(笑)。
僕らは『さよならサブカルチャー』という曲も出しているので、「アーバンギャルドはサブカルにさよならしたんじゃないの?」って言われるんですけど。
僕自身、結果的にサブカル扱いされているもので好きな作品は少なくありません。ただ、ここ数年のサブカルの権威化とか格付けは嫌で、好きだから享受しているというよりも、極端に言えば自分のブランドとして「モテ」の道具にしている人が増えてきたのを憂えてこの曲を書きました。
70年代にロックミュージシャンが「ロックは死んだ!」と宣言することでロックの蘇生をはかったでしょう。あれに近い。いったんサブカルチャーに…サブカルと略されることで抜け落ちてしまったものに対して死刑宣告しなきゃいけないなと。
だけどそういう話を熱弁していたら大森靖子さんに「でも天馬さんはサブカルでモテてるじゃないですか!」って反論されましたけど(笑)。
歌詞に世相を直接的に反映させた理由とは?
――(笑)。本作の特徴のひとつとして、「世相」を語る歌詞が多い気がして。歌詞に世相を直接的に反映させているバンドって少なくなりましたよね。ロックバンドでも自問自答してる方が多いような…。
それは自分の世界で完結してる、つまりは「自撮り」と一緒ですよね。
別に僕自身、積極的に政治的なことを言いたいわけじゃないんですけど、明らかに今見えている事象については言わなきゃいけないんじゃないの?と思って書いている部分が強いです。
目の前に、目の中にはいってくる風景は書かざるをえない。
社会的なものを書いているつもりは無いんですけど、どうしてもそういう事象が入ってきちゃう。
アーバンギャルドっていわゆる「メンヘラ」系のバンドですけど。他の病んでる系のバンドに比べて、メンヘラというものに対しての距離のとり方が違うのかな。2つカメラがあるというか。近い所で手首を切ってる少女自身の視点と、それを遠くから監視カメラのようなもので見ている視点が一曲の歌詞の中で同時並行してるという。そこがアーバンギャルドの面白みで。
浜崎容子と松永天馬の立ち位置にも同じことが言えますね。ヒロインと語り部というか。物語の少女に託して言葉を紡ぐ。
やっぱり自分で自分のことを書くのには抵抗があるんですよね。良くないことなのかもしれないけど。