1月22日・日産スタジアムに集まった4万475人は、サッカーの素晴らしさを再確認したことだろう。いや、観客だけではない。 昨年8月4日に急性心筋梗塞のため34歳の若さで亡くなった元日本代表DF松田直樹さんの追悼試合に参戦した86人の仲間も、サッカーができる幸福を感じていた。
撮影:スエイシナオヨシ
松田さんが長年在籍した横浜F・マリノスOBと、日本代表などで松田さんとともに戦ったメンバーによるNaoki Friendsによるゲームは、1-0で横浜OBが勝利した。同期であり、追悼試合の実行委員長でもある安永聡太郎のゴールが試合を決めたのも、偶然とは言えないだろう。安永は試合後、「あいつの命日あたりで、今度は松本で追悼試合をやりたい。みんな賛同してくれるはず」と、最後の在籍地となった松本山雅でのメモリアルゲームの実現を口にした。
さらに中村俊輔が「これだけの人が集まったのはマツさんの人望」と語れば、宮本恒靖も「言葉で言える選手はいるけど、このように人から愛された選手だから選手たちも集まったと思う」と松田さんの人徳を口にした。ゴン中山はその人柄を「きかん坊。ヤンチャ」と称した。さらに「自己主張が強く、自己主張を通せば反発も大きくなるけど、反発のことを考えつつも恐れない男でした」と続けた。さらに松田さんとの思い出を問われたトルシエ監督は「ワールドカップの時、宿舎でプールに落とされたことかな」と笑った。松田さんが高卒ルーキー1年目の際、「一年で井原さんを抜く」とターゲットにされた当時の日本代表DF・井原正巳は「一番覚えているのは、日本代表の遠征から帰ってきちゃったとき(笑)。おいおい代表ってそんなもんじゃないだろうと思いました」と懐かしんだ。
松田さんは人々から愛される選手であり、彼自身はとにかくサッカーを愛していた。
横浜F・マリノスや日本代表での試合後にコメントを取ったり、インタビューも3度しか行ったことはないが、たった3回のインタビューでも松田さんの魅力はビンビンに伝わってきた。キャリアでイケイケ状態に入った2001年のインタビューでは、「プレミアリーグやセリエAの上位チームの試合を見ると、うまい選手がいくらでもいる。世界のトッププレイヤーに比べれば、ボクなんて全然まだまだのレベル。でも、少しでも『近づきたい、追いつきたい』と思っているから楽しいですね」と、翌年にW杯を控えた日本代表のDFは、Jリーグで戦いながら、常に世界を睨み、自分のプレーに満足することはなかった。
さらにインタビューでは、ファーストステージで優勝した喜びよりも、チャンピオンシップで鹿島に敗れた悔しさを振り返った。「正直、あそこまでチーム力の差があるとは思わなかった(第1戦0-0、第2戦0-3)。うちってまだまだなんだなって気付いた。それで今シーズン、うちは優勝争いをしていかなければいけないんだけど、いい選手が抜けて戦力ダウンした。ハッキリ言って鹿島との差はさらに開いてます。それに下位のチームも補強してチーム力をアップしている。優勝どうのこうのと言う前に、最下位になる危険性すらある。だから楽しみなんです」
松田さんはこのように、逆境を楽しむメンタルを持っていた。日本サッカー界のトップを知る松田選手にとって、JFLの松本山雅FCでの日々は、驚きやジレンマの日々だっただろう。だが、そんな日々を松田選手は楽しんでいたことだろう。
2003、2004年に横浜がJリーグ連覇を果たした時は、「チーム全員で戦った結果」「監督が勝たせてくれた」と語り、2006年、キャプテンに就任し、中位に甘んじると、「全部オレの責任。申し訳ない」と自らを責めた。
真っ直ぐな松田選手は、時間稼ぎのプレーを嫌った。チームメイトがファウルを受けて痛がる振りをしていたら、走り寄って、有無を言わさず、腕を引っ張り立たせた。その理由は「オレたちは戦っているんだ。戦いに時間稼ぎはいらない」とキッパリ。もちろん、松田選手は激しいプレーでカードをたびたび受けたが、「それでJリーグ基準のタックルに変えたら、世界に通用しない」と、自らの信念を曲げなかった。
かつて「骨のある奴」というコーナーでインタビューした時は、30の定型質問のコーナーがあり、読み返してみると、「好きなスポーツ」も「今一番したいこと」も「サッカー」と答えている。「もしサッカー選手でなかったら何の仕事をしてた?」には「サッカー選手以外は考えたことがない」との答えが返ってきた。
サッカーをトコトン愛した松田直樹さん、松田さんの仲間たちが彼の愛したサッカーをこれからも支えていくことだろう。