いくつかのことが起きる。
ワールドカップ予選で日本代表の選手が最後の最後の大事な場面でPKを決める。
さる政党に属する一年生議員が、マンションのベランダから落下してきた幼児をダイビングキャッチで受け止め、命を救う。
小説家の家に浮気相手の女性から電話がかかってくる。
伊坂幸太郎の最新作品集『PK』に収録された、「PK」「超人」「密使」の3つの中篇には、これらの出来事が共通して描かれる。しかし、それぞれの作品はまったく違った始まり方をし、別の終わり方をする。読者が作品から感じ取る手触り、風合いもそれぞれに異なっているはずだ。
ある出来事の異なった側面を描いた3篇だから?
いや違う。小説は文章次第でまったく違うものになるからだ。たとえ部品が同じでも、組み立て方を変えればまったく別の完成形になる。イーグル号、ジャガー号、ベアー号とゲッターロボの関係とでもいうべきか(『ゲッターロボ』を知らない? 残念。あんなにおもしろいのに)。
2000年に『オーデュポンの祈り』(新潮文庫)で第5回新潮ミステリー倶楽部賞(廃止)を受賞した伊坂幸太郎は、第2作『ラッシュライフ』(新潮文庫)で従来のミステリーではあまりなかった小説の形を呈示した。第3作『陽気なギャングが地球を回す』(祥伝社文庫)で強盗を主人公にした犯罪小説、第4作『重力ピエロ』(新潮文庫)で欠落した要素のある家族を中心とした小説といった具合に快調に作品を発表していき、出身母体であるミステリー・ジャンル以外の読者からも注目され始める。かなり早い時点で伊坂は、いわゆるライターズ・ライター、同業者から尊敬されるタイプの作家になった。他のメディアにも彼のファンは増え続け、大ヒット作こそないもの多くの作品が映像化されることになる。小説・映像化作品がともにヒットしたのは、2007年の『ゴールデンスランバー』(新潮文庫。映画は中村義洋監督、堺雅人主演)が最初だろう。
伊坂小説に読者がはまってしまうのは、抗しがたい2つの魅力があるからだ。
1つは、浮遊するような文章の魅力である。ユーモアを交えながら(時には親父ギャグも)ふわふわと漂う伊坂の文章は、小説の中途ではしっかりした着地点を持たない。たとえば、彼の小説の主人公はしばしば回想にふけるが、その回想が現在起きている出来事の何に接続しているかはすぐに明かされることがない。言うまでもなくそれは現実がそういうものだからで、中途半端な回想やデジャヴのたぐいを自身の周りに付着させながら人は生きているのである。そうした過去の断章はときどき現在進行形の出来事と呼応することがあるが、たいていの場合はそのままノイズのように空中に消えていく。そうした浮遊感を伊坂は見事に文章で再現するのである。
もう1つは、小説の一点ですべてが完璧に見える瞬間がやってくることだ。絶望的に像を結ばなかったジグゾーパズルが突如1つの絵にまとまったかのように。家中でのんきに遊びほうけていたおもちゃたちが、朝の到来とともに子供の箱に飛びこんで動かなくなるかのように。一般には「伏線の回収」として知られる技法によって、伊坂は読者を気持ちよくさせてくれる。この「片付いていく」カタルシスが最高潮に達したのが『ゴールデンスランバー』だった。しかし伊坂はこの感覚に頼るつもりはなかったらしく、同作に続く長篇『モダンタイムズ』(現・講談社文庫)では、故意に行き当たりばったりの形で小説を進め、「片付かない」残余を作ろうとしている。まるで「このごりごりした感覚が残るのが、第3の伊坂幸太郎なんですよ」と宣言するかのように。
『PK』は、時間軸を一にしているように見える3つのエピソードが展開していく小説だ。冒頭にいくつかの出来事が起きると書いたが、これらは相互に因果関係を持っている。ただし「PK」「超人」「密使」の3篇に共通するような因果律は存在せず、少しずつずれているように見える。これも前述したように、語りの順序や言葉の抑揚を変えれば事実とされることの見え方も変わってくるからである。そのように現実を切り取ってくるやり方が話者の自由に任されているのが虚構だという言い方もできる。
そんなわけで「PK」「超人」「密使」の3篇は、同じ時間軸の上に乗った話であるはずなのに、少しずつずれているのである。あるものは希望を感じさせ、あるものは読者に絶望を与える。それが語り方の問題であるということは、たとえば『ゴールデンスランバー』で伊坂ファンになった読者ならば意識すべきだろう(主人公・青柳雅春がなぜあのような運命をたどることになったのか、思い出してみてもらいたい)。3篇の配置が「密使」を最後にする形になっているのは、読者を過度に不安にさせないように、という作家の配慮だろう。作家の企みによって起きた波紋は、同じ作家の発したちょっとした冗談によって中和され、鎮められる。しかし鋭敏な読者は、作品によって生じたざわめきがいつまでも心の中で続いているように感じるはずだ。覚えておこう。そのかさこそいう音こそは、本当に読むべき小説を読んだという証拠なのですよ。