千住真理子

「伝えたいことを伝えようという気持ちが強いです」
音楽家にとってシンプルな、しかしとても大切な信条だろう。今あえてそれを口にするのは、今年活動45周年の節目を迎えているヴァイオリンの千住真理子だ。1995年から5年ごとに取り組んでいるJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ全曲演奏会に今年も挑む(横浜、大阪、東京の3公演)。
彼女が伝えたいこと。それは公演のタイトルでもある「平和への祈り」だ。
「このコロナ禍の中で聴衆の皆さんが集まってくださることを思う時の、心が震える感動。こんな気持ちは今までに味わったことがありません。バッハの音楽の中にある祈りや希望、そして絶望も。それらを通して、今生きていることを感じ合いたい。3時間のバッハの空間を一緒に過ごしたい。自分がバッハを弾き続けることの意味や挑戦という部分は、今回は非常に二次的なことのような気がしています」
バッハを弾く時は自分を「無」にしなければならないと語る。
「目を閉じて、ひたすら音を聴く。聴くというよりは見つめるという感覚。そうやって弾き進んで行くと、真空の世界に音が広がっていく。音だけの世界。宇宙と言ってもいいかもしれません。そこにすっぽりハマった時に、私というものがなくなって、音楽だけが進んでいく。それがベストの状態です」
音は空気の振動だから、真空は無音だ。でも彼女はきっと、そんな物理現象ではない「音」を聴き、見ている。
「音楽って、聴覚だけでなく、実は肌でも感じているのだという説があります。音は、そんな底知れない人間の五感で捉えられている。それを特に強く感じるのが、このバッハの無伴奏です、他の作曲家や、バッハでも他の作品だと、実世界の空気の中で伝わるメロディの語らいのようなものも感じるのですが、この作品にそれはありません」
春からの長い活動休止を経て、ライブへの思いはいっそう強まった。
「ステージの上はお客様の圧を感じます。波のようにわーっと寄せてきたり、すーっと引いたりする不思議な感覚があって、演奏家はそれによって弾かされているというようなところもある。それが心の対話、心の交流というものなのだろうと思います。だから、配信やCDでは伝わらないものも、コンサートでは確実に伝わるんですね。私というフィルターを通して鳴るバッハから、お聴きになったお一人お一人が感じるのは、たぶん私が想像がつかないようなものです。それこそが人間の、あるいは地球という惑星の素晴らしい文化だと思います」
最後に「バッハの一番の魅力ってなんでしょうね?」と尋ねると、即座に「救いですね」とひと言。そして少し間を置いて加えた。
「私自身にとっても。聴いてくださる方々にも」
かつて自身もバッハに救われたという思いを強く持つ彼女。今度は彼女のバッハが、不安な日常をさまよう私たちを救ってくれるはずだ。

取材・文:宮本明