2. 逃げずに向き合わなければ道は開けない
もう一つ、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』に貫徹されているのは、「逃げようとすればするほど、囚われる」というテーマです。
自らの親の存在から逃げ続けてきたレイは、ずっと幻影に囚われ、当初はジャクーから出ないと頑なだったほどに、行動を縛られてきました。
カイロ・レンは、フォースの暗黒面を拒もうとすれば、師に見放されて絶望し、暗黒面に身を捧げようと父ハン・ソロを殺害しても、心は乱れるばかり。
物理的な意味では、フィンが、前作『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』から一貫して、逃走しようとすればするほど深みにハマり、危険に巻き込まれていく状況が、とても滑稽です。
けれども、いちど向き合えばひたむきなのがフィン。
レジスタンスのヒーローとして大活躍を見せるばかりか、命を掛けるほどに情熱を燃やし、“かけがえのないもの” すら見つけます。
フィンのように、逃げずに向き合うことで、道は開け、生きる意味を見つけられる。
親の存在と向き合ったレイが、フォースで大量の岩を浮かせて、レジスタンスの仲間たちを救い出し、居場所を見つけたように見えたのは、象徴的です。
一方のカイロ・レンは、師からも両親からも逃げ続けており、精神的にも未熟さを見せ、生き様が揺れ動き続けるのとは、対照的と言えるでしょう。
3.「目の前にあるもの」こそが大切
昔からのファンが怨嗟を向けるべきディズニー的要素
そして最後に、「レタスはレタスである」と言う宣言、ヴェールの内側ではなく、ヴェールそのものこそが(言い換えれば、ヨーダが語るように「遠い水平線ではなく、目の前にあるものこそが」)大切なのだ、という極めてディズニー的なメッセージを、無視するわけにはいきません。
ディズニーは、『アナと雪の女王』空前の大ヒットを前後して、アニメでは『ベイマックス』『ズートピア』『モアナと伝説の海』、実写では『シンデレラ』の解釈のし直しに至るまで、神秘性を徹底的に排除してきました。
魔法が使えたり、不思議な世界観であったりしても、物語の行く末、あるいは主人公を始めとする登場キャラクターたちの行く末は、すべて、外的要因ではなく自らが何を成したかによって決まる、という話ばかりなのです。
神秘性は、「いざとなったら魔法が助けてくれる」という不誠実につながり、現代に生きる大多数の人は、そんな夢物語に信憑性を感じません。
ディズニーの現在の黄金期は、悪く言えば「大衆迎合」、良く言えば「観客を誠実に直視した作品作り」の賜物です。
ジェダイやシスは神ではなく普通の人だった
「スター・ウォーズ」シリーズにて、ジェダイは神格化されてきました。
しかし、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』では、ジェダイがフォースの源泉なのではなく、実際は単なる媒介に過ぎないと説明されます。
ジェダイが消えて無くなったところで、フォースは消えるわけではないのです。
そればかりか、ルーク・スカイウォーカーが語ったように、ジェダイは歴史的に、間違いを重ねてきました。
最盛期にダース・シディアスによって滅ぼされ、ジェダイ・マスターたちの間違いから、アナキン・スカイウォーカーはダース・ベイダーと化します。
『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』では、愚かさを最も発揮したのは、やはり旧世代の象徴である、スノーク最高指導者でした。
フォースの暗黒面の強大な力により、何でも見通していると過信し、カイロ・レンの心を読み誤り、殺されてしまったわけです。
“とどめ” のように、ラストシーンでは、厩舎で働かされる何でもない少年が、箒をさわらずにたぐり寄せ、ルーク・スカイウォーカーの伝説と、レジスタンスの指輪に、心を昂ぶらせます。
フォースは誰にでも宿り、発現する可能性があり、ヒーローになれる。
ジェダイは概念の中だけの「伝説」となり、現実にはただの人でしかなかったと、これ以上ないほど露骨に示されます。