かなしみも肯定する平常心の強さに、わたしたちは救われる
恋をしたわけでもなんでもない相手に嫁ぐことが当たり前だった時代。その当たり前に、そんなものなのかなあ、と微かな違和を潜ませながらも、抗うわけでもなく、馴染みのない場所で、馴染みのない人々と、家族に「なっていく」過程を、ずずならではのマイペースは崩さぬまま、引き受けてみせる。
自ら「ぼうっとしている」と名乗るすずの心のスピードは、モノローグにも聞こえるしダイアローグにも聞こえる、主体と客体が重なり合う「のん」ならではの声によって昇華され、確かなアイデンティティとなって、わたしたちの胸に届く。だからこそ、戦時下の日常が、慈しむように描写されるアニメの筆致が活きるのだ。
「のん」の声には、ひとりひとりの観客に語りかける「心の共通語」がある。
そこで語られているのは方言なのだが、スクリーンの向こう側に存在するキャラクターではなく、わたしたちのすぐそばにいる誰かの声として聞こえる。
おそらく音声がそのように録音されてもいるのだろうが(本作は、映像と声優の声の距離感が独特だ)、それ以上に、「のん」の発声それ自体が、慎ましいサインに満ちている。
ひとが日常を大切にするとき、生まれる声。暮らしというものに対してひたむきになるとき、もたらされる響き。映画が始まってすぐに、わたしたちはそのことを直感する。
本能のレベルで、知る。「のん」の声は、この映画の環境をかたちづくっている。
後半では、思いがけない悲劇が、すずの身に襲来する。すずは、それまでのようにマイペースではいられなくなる。その傷を、その心象を、「のん」がどのように演じているか。その瞬間瞬間を体感するために、『この世界の片隅に』はいまここにあると言って過言ではない。
思い出しても涙がこぼれそうになるが、「のん」は一貫して、目の前にあることを肯定することに、心をくだきながら表現している。よろこびばかりではなく、かなしみも肯定する。それはあるのだと、肯定する。その途方もなく、平常心の強さに、わたしたちは確かに救われる。
そして、この肯定の力こそが、アニメ/実写のカテゴライズを超越する。必見、にして、必聴。