『君の名を。』も成し遂げていなかったことを、『この世界の片隅に』は達成している!?
映画業界では、かなりはやい段階で多くのひとが次のようにささやいた。
「『この世界の片隅に』が今年のベストワンだ。アニメのベストワンじゃない。実写も含めたあらゆる映画のベストワンだ」と。この前評判はダテではない。
この映画を前にしたとき、わたしたちは思うはずだ。アニメ/実写という区分けが、いかに古色蒼然としたものであるかと。賞であれ、なんであれ、「アニメ部門」などというカテゴリーはとっととやめてしまえばいいのにと。
ひょっとすると、ジブリも、エヴァも、押井守も、細田守も、そして『君の名を。』も成し遂げていなかったことを、『この世界の片隅に』は達成している可能性がある。
ただ、もう一点付け加えるべきはーーむしろ、こちらが重要な点なのだがーー、この作品はあくまでも「日本映画」であり、きわめてドメスティックな価値を有しているということだ。
前述した作品群は、もはや死語かもしれないが「ジャパニメーション」の名の下に、海外にも流布できる汎用性がある。なぜなら、徹頭徹尾、アニメーションだからだ。アニメだから、国境を超えることができる。
きわめて逆説的な物言いになるが、『この世界の片隅に』は、アニメ/実写の境界線を抹消しているからこそ、おそらくワールドワイドにはなりえない。
だが、だからこそ、素晴らしいのだ。グローバルではない、ということが、ときに映画の強度を示すことがある。
では、この映画のなにがドメスティックなのか。終戦間近の広島を、市井の一女性の視点から描いているからか? 否。戦時下を見つめる映画は、いつだって容易に国境を超える。
反戦という高らかなメッセージは、どんなに時代が変わっても、世界中のひとびとをひとつにする力になりうる。もちろん、本作を反戦映画として捉えるひとも多いかもしれない。だが、この映画の独自性は、そんな使い古された正義にあるわけではない。
誤解をおそれず、あえて断言するならば、『この世界の片隅に』は、反戦という凡庸な正義など、はるかに超越してしまっている。
主人公、すずの声を担当する「のん」の演技を味わうことができて、初めて真価が浮き彫りになる
端的に結論を言おう。これは、主人公、すずの声を担当する「のん」の演技を味わうことができて、初めて真価が浮き彫りになる「日本映画」だ。
「のん」がかつて、『あまちゃん』という国民的ドラマにおいて別な名前で主演していたことを知らなくても一向に構わない。無論、『あまちゃん』を1秒も観たことがなくてもいい。
ただ、「のん」が発することば、そのニュアンス、細部に宿る魂、その核からあふれ出る「声の情景」、それらすべてを享受することができる日本語能力を有していなければ、本作の繊細かつ決定的な魅力を捉えることは、ほぼ不可能だろう。
広島市から呉市に嫁いだ18歳の女の子が体験する悲喜こもごも。映画は、ヒロインが8歳のときから始まり、20歳で敗戦を迎えるまでを追いかける。
嫁ぐまでは比較的テンポよく進むが、これは一種の年代記だ。第二次世界大戦が始まる前から、広島に原爆が投下され、その9日後に玉音放送が流れるまでの激動の12年間が背景が横たわっている。
「のん」はこのバックグラウンドを、見事に背負っている。力演でも熱演でもない。ひょいと、背負っている。この「ひょい」に、すずという娘のアイデンティティがある。
中盤までは、ドラマティックではないことだけが紡がれていく。淡々と、ではなく、すこやかに、ときに小気味よく描く。
決して大きな出来事ではないけれど、真新しい気持ちに出逢うことを、きちんと、でも、肩ひじ張らずに受けとめる様を「のん」は、絶妙なバランスで体現している。