世界で初めてプロとして〈消しゴム版画家〉を名乗ったナンシーが亡くなってから、2012年6月12日で10年が過ぎた。横田増生『評伝ナンシー関 心に一人のナンシーを』は、ちょうどその週に刊行されたのである。遺族の協力を得て、また故人と関わりのあった人々に綿密な取材をして執筆された、ナンシー関初の評伝である。

「心に一人のナンシーを」とは雑誌「CREA」でナンシー関と対談連載を行った、大月隆寛が発した言葉だ(『地獄に仏』文春文庫)。故人のファンであったという宮部みゆきは、「心の中のナンシー」についてこう語っている。

――(前略)私もナンシーさんの本を読んでいたおかげで、自分を見失わずにすんだところがあります。たとえば、作家としてデビューして実績を積んでいくときは、舞い上がろうと思えば、簡単に舞い上がることができた場面もあったんです。(中略)別に、そういうときのためにナンシーさんの本を読んでいたわけではないんですけれど、それまでずっと読んできたから、こういうときに気をつけないと、タレントのだれかれと同じように見えて、周りから笑われてしまうんだな、という考え方ができた。(後略)」

ナンシー関は、プロの書き手として稀有な存在だった。革新と保守を代表する立場から犬猿の仲のライバル関係にあった「週刊文春」と「週刊朝日」で同時にテレビ評のコラムを持ち、ともに絶大な支持を集めていた。しかも、それ以前からスキャンダル専門誌「噂の真相」(休刊)にもコラムを書いていたのだ。ナンシー関以前にそんな書き手は存在しなかったし、雑誌文化が衰退しつつある現況では、これからも登場することはないだろう。空前絶後とは、このことである。

作者は、第1章で故人の業績について評価を行い、第2章で〈ナンシー関〉誕生前夜を関係者の証言によって再構成している。えのきどいちろうやいとうせいこうに才能を見出されてデビューしたシンデレラ・ストーリーはよく知られている。だが「ビックリハウス」の編集長だった高橋章子に冷たくあしらわれたという人間くさいエピソードは本書で始めて明らかにされたものだ(高橋の名誉のために付け加えれば、自身はピンと来なかったものの、他の編集者から進言を受けてナンシー関に連載の場を与えている)。

続く第3章では青森県で過ごした10代までの足跡を振り返り、第4章では交友関係や趣味などについて触れられている。本書に対して不満があるのはこの第4章と次の第5章で、関直美としての私生活について触れるのはいいが、踏み込みすぎてバランスを崩しているように私は感じる。

たとえば、第5章には「もしナンシーがその体重を平均値にまで落とすことができたとするなら」「男として生まれたナンシーが家庭を築き、末永く家族を養っていくという責任感を抱いたとしたら」というような言わずもがなの想定がなされている個所がある。作者は故人の才能の源泉がそうしたルサンチマンにあったという見方を否定しているのだが、やはり先入観からは自由になっていないように見える。