こちらは上部の噴射口から二酸化塩素が出てくるという和氣さんの発明品。介護施設や病院など衛生やニオイに気をつけなければいけない施設に買ってもらったという。

ウィルスブロッカー開発のために
一度はすべてを失った

それだけのヒット商品の開発過程を聞いてみると、和氣さんは「20数年前からの個人的な試行錯誤によります。(開発できたのは)もう、執念としか言いようがない」と言う。

「私は以前は内装の会社を経営していましたが80年代に倒産してしまいました。食事もロクに食べられない時期を過ごしたり、資金繰りに走り回らなきゃいけなかったり、もうそういうのはごめんだとつくづく思いましたね。絶対に事業なんてするまいと思い、インテリア会社のサラリーマンになったわけです」

倒産の時は修羅場だった。「奥さんの家族に借金を背負わせなさい。ここにハンコを押すだけで楽になるから」とヤクザに脅され、それはできないと言ったら、暴力団事務所から帰してもらえない上に、着ていたワイシャツが血で真っ赤に染まるまで殴られ続けた。

そんな目に遭うのはもういやだ、会社員でいることこそが、いちばん平穏を得られるのだから、と就職した矢先、ある人に会った。


「いま事業で主に使っている二酸化塩素についての専門家の方にお目にかかったんですね。もともとは大学の助教授をされていた方でしたけれど、借金で追われてうちで身を隠していた。野球で阪神が優勝した年だったから'85年だったと思うのですが、その年にうちの子どもが自動車の中で嘔吐してしまった。その際、買ってきた消臭剤では、ニオイがなかなか消えないばかりか、むしろ吐寫物と芳香剤のニオイが混ざって気持ち悪い状態になっていた。それを先生に伝えたら、簡単だよ、と二酸化塩素をシャッと車の中にかけてくれたんです。すると、どれだけ時間をかけても消えなかったいやなニオイがすぐに消えてしまった。〝何だ、このすごい物質は!〟と驚いたのが、二酸化塩素との出会いでした」

これは面白いと感じた和氣さんは、もう事業は絶対にやめたと言いながら、会社員の傍らで、ちょっとスーパーの特設コーナーにこの二酸化塩素を置いてもらったりしていた。
自分でスプレー缶を買ってきて、二酸化塩素を入れただけというその製品は、何と当時3000個も売れたばかりか、買った人たちから「もっとないのか?」とリピーターになりたいという問い合わせまで相次いでいた。

これはすごい商品なのではないだろうか。和氣さんは、結局はやめたはずの事業に、またのめりこんでいった。和氣さんが「先生」と呼ぶその元助教授の人物と組んで、せっかく正社員として勤めはじめたインテリア会社も辞めてしまい、ビジネス向けの消臭剤、除菌剤を作ろうとしたのだ。

しかし、まとまったお金が入りはじめた頃に、「先生」ともめてしまい、訣別することになったのである。