「当時の会社は私が経営者、先生が研究所長でした。なぜ、もめたか。先生は、すでに商談が成立して、引き返せない状態になったあとにも、少しでもたくさんお金をくれる会社と勝手に契約を結んでしまった。ビジネスの仁義が幾度となく破られてしまったんです。それで私と先生の仲が悪くなる中で、取引先は経営者である私を無視して先生のところにだけ試作品を持ってきたりする。まともな商売ができないことに嫌気が差してしまい、ついていけない、と先生から離れたんですよね」
しかし、別離は「先生」とだけではなかった。「先生」と縁を切ると妻に伝えたところ、何を馬鹿なことを言っているのか、ともめてしまったのである。「先生」のやっている二酸化塩素の商品、あんなにいいものはない。あなたは「先生」についていくべきだ、と。
「前妻は先生に心酔していたんですね。離婚になり、ふたりの子どもとも会えなくなった。二酸化塩素をきっかけに、会社員でもなくなり、事業も家族も失ってしまったわけです」
二酸化塩素にのめりこんだがゆえに、会社員でもなくなり、手がけた事業もうまくいかなくなり、妻子まで失った。当時の和氣さんはとにかく数ヵ月はやさぐれていたそうだ。
「酒を飲んでウサを晴らして……あ、こんな話はいいですね(笑)。まぁとにかくもう、今度こそ事業はごめんだ、と思っていたんですよね。ほんとうにごめんだ、でしたからね。当時の私の気持ちとしては、二酸化塩素のせいで何もかもを失った。もう二酸化塩素に関わることは絶対にやめよう、だったんです」
素人にも関わらず、見よう見まねで二酸化塩素の実験を積み重ねていった
ここでふたたび「絶対に」が出てきた。和氣さんが取材で「絶対に」と言ったのは事業と二酸化塩素のことだけである。しかも「絶対にやめよう」と言及していた。おそらく、好きで好きでたまらないものと無理矢理にでも別れる時に、自分の選択を後押しするように、当時は「絶対」と思っていたのだろう。
「いや、当時はほんとうに『絶対やめよう』だったんです(笑)。もう先生もいませんからね……。文系の私がどう二酸化塩素の研究をするって言うんですか。だから、以前からよく知っていて、ちょっとした作業ならできるという内装の仕事をしばらくは続けていたわけですね。だけど、まぁ研究者としては素人にもかかわらず、やっぱり二酸化塩素のことが気になって、原材料を仕入れている会社とちょっとずつ付き合うようになって、自分でも、ほんとうに先生がやっていたことの見よう見まねで二酸化塩素についての実験を行いはじめるわけですよね。で、9・11があった時だから確か'01年の頃ですが、その時期、消臭パッドを思いついたんですよね」