【天茂】 「この暖簾に描かれた『天茂』の字が好きなんですよねえ」(粧由里さん)

「かき揚げ丼を食べに赤坂へ行かないか」

35年前、上司に誘われて初めて『天茂』へ行った。

テーブル席が数卓と、コの字型のカウンターの向こうに銅鍋が鎮座した、こじんまりとした天ぷら屋だった。

店内の様子がわかるまでに20分ぐらいかかっただろうか。ビルの2階にあるこの店の、階段の途中まで行列ができていたからだ。

【天茂】 創業以来この佇まいで営業を続けてきた

天茂のかき揚げ丼は並んでまで食べる価値がある

昼は「かき揚げ丼」と「天丼」。

別途「赤だし」を頼むのが当時の、天茂のスタイルだった。

「この店に来たらまずは『かき揚げ丼』を食べてごらん」

【天茂】 かき揚げ丼に香の物と赤だしがついて1500円(以下すべて税込)

上司がかき揚げ丼と赤だしを二人分頼んでくれた。

かき揚げは3センチほどの厚みがあったはずだ。大きくて、ぶ厚いかき揚げを箸で割りながら、夢中でほおばった。

【天茂】 佐渡産コシヒカリの上にかき揚げが盛られている

あのとき、どこに座ったのかまったく記憶にない。

が、二回目以降は並んでいる最中、カウンターに座れるように、いつも心のなかで祈っていた。かき揚げを揚げる主を目の前で見られるカウンターが、この店の特等席だからだ。

【天茂】 高畑粧由里さんが揚げたかき揚げをお母さんの倉茂和子さんが受け取り、天つゆにつける

とき卵と水でといた小麦粉をボウルに入れ、そのなかにエビと貝柱を入れてかき混ぜる。

その際両足で細かいステップをふみながらリズミカルにタネを混ぜるのが、この店の主の癖だった。

足を踏み鳴らす聴こえない音を聴きながら、かき揚げを揚げる音に耳をかたむけ、ごま油の香ばしい香りを嗅ぎながらぶ厚いかき揚げ丼を味わう。