揚げたてのかき揚げを天つゆにつけた瞬間の音もうまい
カウンターにはもうひとつ特典がある。
大半の天ぷら屋が揚げたての天ぷらをご飯にのせ、その上から天つゆをかける。
ところが、天茂では揚げたてのかき揚げや天ぷらを行平鍋のなかで沸騰している、真っ黒い天つゆにひたしてから丼飯に盛る。
この店のカウンターに座っていると、熱々のかき揚げを沸騰中の天つゆにつけた瞬間の、天つゆが弾けるような音を目の前で聴くことができる。
ごま油の香り。足を踏み鳴らす聴こえない音。かき揚げを揚げる音。天つゆにつけた瞬間の弾ける音。
うまそうな音を耳で鑑賞しながら、真っ黒で、ぶ厚いかき揚丼を愛でながら賞味する。
これまで体験したことのないかき揚げ丼の愉しみ方や、食べる悦びを教えてくれたのが、天茂創業者の倉茂富夫さん(1935年生まれ)、その人だった。
「父は銀座の老舗天ぷら屋『天一』で8年ほど修業。1964年にこの店を開業しました」と愛娘の高畑粧由里さん(たかばたけ さゆり)が教えてくれた。
富夫さんが揚げるぶ厚いかき揚げ丼はいつしか評判を呼び、連日大盛況。
昼だけで139人もの客が来た日があったという。
この店で「知の巨人」と呼ばれた立花隆さんを見かけしたことがある。窓際のテーブル席でかき揚げ丼だったか、天丼をおいしそうに食べていた。
1994年に富夫さんが病気になり、粧由里さんが店を継いだ。
「2年半マンツーマンで天ぷらの揚げ方を父に教えてもらいました。『かき揚げはシュークリームをイメージして揚げろ』が父の口癖でした」
かき揚げとシュークリーム。類似点など皆無のようだが、富夫さんにすればおおありだった。
「父は天ぷら職人になる前、ケーキ屋で働いていました」
ある日、銀座でケーキ職人が競う品評会か何かが開かれた。それを見に行った富夫さんは「俺には無理だ」と痛感。ケーキ屋を辞め、天ぷら職人の道を歩み始めた。
もし品評会へ行っていなければ、我々は天茂のかき揚げ丼と出会えなかったかもしれない。
1997年、粧由里さんが天茂を継承。
代が変わり、かき揚げの厚みにも変化があった。
「父はかき揚げのタネを二度に分けて入れていました。最初に落としたタネにある程度火が通ったら残りのタネをその上にかける。それが父のかき揚げでした。父はいとも簡単にやっていましたが、私にはそれが難しくて……」
夜のコース料理で供するかき揚げは父のやり方を踏襲している。けれど、昼は時間との勝負。
「やりたくてもできない」と粧由里さんは唇を噛む。