テレビ画面に介入できる。それがゲーム
飯田 現在の学術的なテレビゲーム研究で『マリオ』を古典たらしめているポイントが、まさに「答えがひとつではないこと」だとしている研究者も多いようです。養老先生も見抜かれていた?
養老 いやぁ、まんまとゲーム性に釣られてしまったという(笑)。それだけでしょう。やっぱり最適解がいくつもあるゲームはなかなか飽きることがなくて、そこがほかのゲームとの決定的な違いだね。
飯田 卒業しにくいと。
養老 そうだね。卒業しにくい。やめられない。やめさせてくれない(笑)。
飯田 僕も連日徹夜で『スーパーマリオブラザーズ』をやっていたので、画面がスクロールしていくシーンが強く残ってしまい、高校で授業を受けていると、黒板がするーっと横にスクロールしていくという感覚に……。そういうことってありました?
養老 それはいくらなんでもないわ!(笑) 相当、重症。でも横スクロールは『鳥獣戯画』以来の絵巻という伝統的文化なので、日本人との親和性は高いかもね。日本人は大昔からちょいちょいゲーム的な「遊び」をやってたんだろうね。
飯田 『マリオ』の場合、画面の端には一体何があるんだろう、どうしてもそこに行ってみたいという好奇心が煽られます。でも実際のところは設定された座標の終点というだけで、未知の場所ではない。そうした事情もなんとなくわかった上で、それでも冒険心を掻き立てられるというのはいったいなんなのでしょうか?
養老 テレビゲームは制作者とプレイヤーが対等な関係で、双方の想像力が交わっているからだな。これは、漫画における4コマからストーリー物の誕生という質的転換と同じことが、テレビメディアで起こったんだと思う。つまり、それまでのテレビ番組があまりにも一方通行的だったということがあって、そこからの脱却。
たとえば、主人公がいかにも落っこっちゃいそうな危ない崖にわざわざ歩いていく。それを見ながら、「あ、落ちる落ちる!」ってなる。自分だったら絶対にそこには行かないよ。で、テレビはやっぱり落ちるんですよね。
これってね、ものすごく欲求不満というか、イラッとくる。テレビ放送が始まった初期の頃は、それでもドキドキしたけれど、やがてそんな演出ばかりになっちゃったからね。
で、陳腐な演出が飽和しきった時期に、映像を自分の力でコントロールできるものの代表としてゲームが現れた。かねてからの欲求不満も相まって、これが爆発的にどーんと拡がった、と。
飯田 おもしろい指摘です。
養老 ヒトはずっとテレビの画面に手を突っ込みたかったんだよなぁ。
飯田 それはなぜですかね。
養老 人間はそういう風にできてる。環境を操作したいと常に思う。いかに引き込まれるストーリーでも、どんなに映像が美しくても、次の段階ではそこに関与したくなる。ゲームはその欲求を満たすメディアとして現れたんだ。