小さい子でも「悪い行い」はきつく戒めよ。でも体罰はダメ
人としての「悪い行い」に対しては、たとえ小さい子どもであろうと厳しく戒めよ、と説いています。
「仮初めにも人を打ち擲く(たたく)などの類、~(中略)~ 横着・不道(無道)の悪作は聊(いささ)かも之を許すべからず。何事に因らず悪しき行迹(ふるまい)有る節は、急度(きっと)、之を戒め、重ねて至させ間敷き(まじき)者なり。」
【訳】
仮にも人を殴ったり叩いたりなど、~人の道に外れた悪行は少しも許してはならない。万事、悪い行いをしたときには厳しく戒め、二度と同じことをさせてはならない。
体罰による戒めに関しては、“嘆かわしい”として否定しています。
幼少のうちは人に従いやすいため、体罰によらず、親が威厳をもって善悪を教え、良い行動はおおいに誉め、人道に反する悪い行いは徹底的に戒める。そうすることで、それが習慣として身についていくといいます。
ちなみに江戸時代では、子どもが悪さをした時、近所の老人などがやってきて子どもと一緒に謝ってくれる「あやまり役」という慣習があったそうで、子どもにとっては、叱られた後のいい“逃げ道”が用意されていました。
現代では親と子が1対1になってしまうため、厳しく叱るにも工夫が求められますが、「悪いことは悪い」とはっきり伝わるような、メリハリのある叱り方ができるといいですね。
好き放題させるのは「本当の愛」とは言えない
『養育往来』が子育てにおいて最も重視しているのは、幼いうちから「悪」を戒め、人としての「善い道」を教えること。
幼いわが子の可愛さあまり、あるいはいちいち対応するのが面倒、などの理由で子どものわがままを許し、好き放題にさせることは「本当の愛情とはいえない」と述べています。
「一切の所作・挙働・衣食・言語に至るまで、一言の善き言を聞かず、一毛の佳き事を観ず、気随・気侭を佳しと為て(して)、正しき行いを知らしめざるが故に、其の風俗、常の癖と成り、しかも生涯を愆(あやま)つ者なり。
嗚呼、是をなんぞ子を愛すと云うべけんや。
悉皆(しっかい)我が子に害を加うる而己(のみ)。是を名づけて曲愛と曰うなり。」
【訳】
立ち居振る舞い・行動・衣食・言葉に至るまで、一言の良い言葉を聞かず、少しの良いことも見ず、自分の思うまま・勝手気ままをよしとして、正しい行いを教えないでいると、その習慣が常となり、一生を誤る。
ああ、これがどうして、子どもを愛しているといえようか。
ことごとく自分の子に害を与えるのみ。これを名づけて「曲愛」という。
愛情のあまり、自分の子を賢いと錯覚し、悪あがきすればしっかり者と思い、人に勝つことが好きなら「強い」と誉め、嘘をついて人をだませば「知恵がある」「賢い」などと誉める。
また、“子どものためを思って”いつも子どもが喜ぶような美服を与え、三度の食事に親の食事よりも美味しい物を与え、小銭をやって好き放題に買い食いさせる…。そういったことは「曲愛」にあたり、後々の子どものためにならないといいます。
子どもを養いながら人の道を教えない、また教えてはいても厳しくしないのは、愛情をはき違えており、子どもを愛していることにはならない。“本当の愛”とは、ときに厳しさを持って、人としての正しい道を教えることなのだ、と説いています。
モノがあふれる現代、常に物質的な充足を与えて子どもを喜ばせることが、子どものためになるとは限らないのかも…と深く考えさせられます。